京都・伏見稲荷大社「藤尾社」【重要文化財】
造営年
- 江戸時代初期
建築様式(造り)
- 一間社流見世棚造
屋根の造り
- 檜皮葺
主祭神
- 舎人親王
社格
- 伏見稲荷大社・末社
例祭
- 5月5日:10時
- 11月5日:15時(火焚祭)
重要文化財指定年月日
- 2014年(平成26年)1月27日
「藤尾社」の読み方
藤尾社:「ふじおしゃ」
藤尾社の御祭神・舎人親王
舎人親王(676-735)は、大化の改新で知られる中大兄皇子(のちの天智天皇)の弟、天武天皇の皇子で、淳仁天皇の父にあたる人物です。
5人の天皇の下で政治の世界でも力を発揮しましたが、一方で、『万葉集』も作品が残る歌人でもあります。
また、奈良時代初期に現存する日本最古の歴史書である『日本書紀』の編集を行ったことで知られ、「日本最古の学者」「学問の祖神」とも言われます。
舎人親王は平城京(奈良)で亡くなっており、墓所も奈良に設けられたと考えられ、なぜ伏見に舎人親王が祀られているのかは、はっきりとはわかっていません。
藤尾社の歴史・由来
伏見稲荷大社では、1589年(天正17年)の社頭図に、「藤尾天皇再興 南向」とあるのが、藤尾社の史料への初出としています。
その後、江戸時代の1680年(延宝8年)には天皇塚が崩れた跡地に小社を新築し、藤尾社としたとされています。
なお、伏見稲荷神社の表参道にあるこの藤尾社は、そこから真南に2kmほどの場所にある藤森神社と深い関わりがあります。
藤森神社には、かつて周辺にあった3つの神社の御祭神が、本殿中央・東殿・西殿に祀られており、このうち東殿には、藤尾社の御祭神・舎人親王と、その父、天武天皇が祀られています。
その経緯については諸説ありますが、大きく分けて以下の2つに集約されます。
①室町時代に遷座した説
1438年(永享十年/室町時代)、後花園天皇の勅令により、室町幕府6代将軍・足利義教(よしのり)が山頂や山腹にあった稲荷の祠をすべて山麓(山の下)へ移座させ、稲荷社と社号を改めた。
だグァ!しクぁし
現在の伏見稲荷大社の本殿がある一帯は「藤尾」と呼ばれたらしいが、759年(天平宝宇三年/奈良時代末期)になると、当該、藤尾の地に藤尾社が創祀された。
つまり、山麓(山の下)にはすでに藤尾社が鎮座していたわけだが、後花園天皇や足利義教らが山中にあった稲荷の祠をすべて山麓、つまり、藤尾の地に移座(移動)したものだから、已む無く藤尾社は付近の藤森神社境内の東殿へ遷座(移動)と相成った。
なお、藤尾社が移転してきたのが原因なのか判然とはしないが、藤森社でも境内社の真幡寸神社(まはたきじんじゃ)が城南宮へ移座する運びとなった。
ちなみに城南宮の公式サイトには次のような掲載がある。
祭神 真幡寸大神、応神天皇
日本紀略の816年/弘仁七年7月21日条に”真幡寸神、官社の列に預る”(延喜式神名帳にも”貴重”なほどに”記帳”されているらしい)
稲荷大社本殿の場所についての異説
近隣の藤森社や氏子には次のような伝承がある。
かつて現在の稲荷大社本殿が建つ敷地一帯は藤森社の敷地だったが、ある時、当時、稲荷山中にあった稲荷社から藤森社に対して次のような打診があった。
『稲藁(いなわら)の置き場所を確保したいので土地をお借りしたい。』
藤森社もその程度のことならと快諾したが、何を考えたのか稲荷社側は稲藁をバラして一本ずつ、つなぎ合わせて広大な面積を囲った。
その後どのようなやり取りが交わされたのかは判然とはしないが、最終的に藤森社が泣き寝入りをして現在地へと追いやられる恰好となり、時代が下るとその場所に稲荷社の本殿が建てられた‥‥という話。ちゃんちゃん
これを傍証する奇習として稲荷大社社頭および門前では現在でも稲荷祭を斎行しない風儀が踏襲される。(神輿を乗せたトラックが通過するのみ)
‥‥‥とまぁ、これらはあくまでも俗説の域を出ない伝承の一つ。
藤森祭では「土地を返せ」と叫ぶ?!
通例であれば神社周辺の土地の住民たちが氏子になるのだが、現状の稲荷大社周辺は藤尾社(藤森神社)の鎮座地ということで藤森神社の氏子地域になっており、稲荷大社の氏子地域は少し離れた京都駅周辺になってい‥‥申す。あひょ
これに付随し、現行の藤森社の例祭・「藤森祭」でも
藤森祭の「土地返しや~!」
5月5日に行われる藤森神社の「藤森祭」の際には上記の伝承に則ってか、当該、稲荷大社境内の藤尾社の前まで神輿が進入するのだが、
この時、神輿の担ぎ手(氏子)たちが「土地返しや、土地返しや」と、当初自らの土地だった藤尾の地の返還を求め、伏見稲荷大社の方では「神様はお留守」と応えるという風儀あった。
現今に到っては、神輿が並べられ、神事が斎行されるのみになってい‥‥申す。おひょ
今もなお稲荷大社境内に奉祀される藤尾社
以上、つまり当初の藤尾社は移転したものの、現在もかつての藤尾の土地神でもあった藤尾社への敬意を表してか、社殿を建て奉祀しつづける。
②平安時代に空海が関わった説
一方、藤尾社が現在の藤森神社に遷座することになったのには、弘法大師空海が深く関与しているという以下のような伝承もある。
その1
816年(弘仁七年/平安時代)のこと。大師が稲荷山上にあった稲荷社を山麓に移転させようとした時、当時、山麓に鎮座していた藤尾社の土地をもらぃ、稲荷社を建てたという説。
その2
稲荷山山麓(山の下)に粗末な草庵(草ぶきの小屋)を結び(住み)、昼は田を耕し、夜は薪を集めて暮らす老翁がいたとな。
この老翁、不思議しぎしぎ摩訶不思議なことに頭上に光を放つものが備わり、夜でも昼のように周囲を照らすことができたんだとな。
そんなこんなで平安時代になると、弘法大師が稲荷山へ登拝して修行を開始するのだが、その最中、折しも先述の老翁が顕現し、自らは山神だと大師に名乗った。
この時、大師は自らが嵯峨天皇より下賜された東寺境内の五重塔の建材を求めていたこともあり、稲荷山の神を東寺の鎮守神にと考えていた矢先の出来事だった。
その後、二人の間でどのような会話が取り交わされたのかは判然としないが、なんにせよ老翁の正体が稲荷神であることに気づいた大師は、最終的に稲荷山から木々を伐採する許しを得ることができたのだった。
そこで大師は、老翁(稲荷明神)を盛大に奉祀すべく、藤尾社(藤尾大明神)があった山麓に社殿を造営することとし、さっそく嵯峨天皇へ藤尾社の移転を願い出た。
こぅして嵯峨天皇の勅命によって藤尾社は深草の地(藤森社境内)へ遷座し、その後の藤尾社の歴史の変遷は既述のとおり‥‥といぅお話。
龍頭太
上記の老翁の正体についてもぅ少し掘り下げておくと、他に自らに名前があることを大師に告げ、名前を竜頭太(りゅうとうた・龍頭太)と言ぃ、竜のような面貌をしていた。
大師は稲荷の神である老翁を奉祀する折、老翁の面貌を写し取って東寺(教王護国寺)に祀ったと伝わる。
老翁の正体
修行中の大師の前に顕現した老翁(龍頭太)は、稲を肩背に荷っていたことから、姓を荷田と言った。
この荷田氏(かだうじ)とは、伏見稲荷大社の神職を世襲した旧社家の家柄であり、竜頭太はその祖先(祖神)とされる。
‥‥とまぁ、以上のよぅな空海と竜頭太が出会って、東寺と稲荷信仰が習合するといぅストーリーは幾つもバリエーション豊富にある。
藤森神社はだまされた?
上記の藤尾社が稲荷大社境内を追い出されたという話の延長で、騙した主犯が弘法大師・空海その人だった!‥といぅ伝承もある。
colored_bg color=”light‐green” corner=”r”]
関連記事:藤森神社の歴史(起源や名前の由来)
[/colored_bg]
藤尾社の建築様式(造り)
藤尾社の社殿は「一間社流見世棚造(いっけんしゃ ながれみせだなづくり)」と呼ばれる建築で営まる。
「一間社」とは?
一間社とは、正面の柱と柱の間「柱間(はしらま)」が一つ、つまり、正面の柱が2本の社殿のことをいぅ。
「流造」とは?
流造とは、前後に斜面のある「切妻造・平入り」の建物ですが、屋根の前方の方が長く、向拝(こうはい/ごはい)と呼ばれる庇(ひさし)状になっているという特徴が備わる。
「見世棚造」とは?
見世棚造とは、藤尾社のような小規模な社殿の建築様式で、ご神体を安置する、あるいは人が立ち入る部屋や階段を設けず、店舗の商品陳列用の棚(見世棚)のような形にしていることが由来となってい‥‥ます。ふぅ(耐)
藤尾社の場所
藤尾社は、伏見稲荷大社の大鳥居がある表参道から楼門へ向かうと、楼門の手前にあります。
同じ敷地内に熊野社、藤尾社、霊魂社の3社が並び、藤尾社は真ん中に位置しています。
関連記事一覧
関連記事:京都・伏見稲荷大社「霊魂社」