【伏見稲荷大社の歴史(年表)を簡単に説明🦊】名前の由来や建てられた理由(建てた人)を…シチュー煮ながら知るつもり❓

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京都・伏見稲荷大社の歴史(年表)

奈良時代

711年2月7日(初牛の日)

稲荷社草創については奇譚じみたものがあり、城国風土記(やましろのくに ふどき)の逸文(いつぶん)には次のように記される。

秦中家忌寸(はたのなかつやのいみき)の遠祖とされる富貴・山伊侶巨秦公(いろこのはたのきみ/秦公伊侶巨と書いて”はたのきみいろぐ”とも読む)が、ある時、お餅(もち)を天高く投げて弓射の的にして射よぅとしたところ、突如、お餅が空中で白鳥に変化し、三箇峰(さんかのみね)の山頂に降り立った

そして、白鳥が舞い降りた場所には稲が生え(伊禰奈利生之)、これを奇瑞とした伊侶巨は急ぎ祠を築造し神を奉祀した。

※忌寸(いみき/伊美吉)とは、684年(天武天皇13年)に制定された「八色の姓/やくさのかばね」で新たに作られた姓(かばね)で、上から4番目。

稲荷社には本来、蛇神が奉祀される想定だった?!

一説に宇迦之御魂神の「宇迦(うか)」は「白蛇」のことを指し、今日に知られる狐へと変容したのは陰陽五行説の影響だと言われる。

然るに蛇とは狐よりも古い歴史があり、本来は蛇神が祭祀される想定があった事実も無視できない。

あまり知られていないが、711年(和銅四年)に稲荷社が創建されたが、その翌年の和銅五年は60年に一度の壬子(みずのえね)の年であり、水気が横溢して大水害が予兆されたことから、水害を防ぐ目的で水属性の蛇を忌み、土属性の狐を充てがったとする。




山城国風土記は奈良時代に編纂されたものではなかった?

江戸後期の国学者・伴信友(ばん のぶとも)が天保六年に著した「験(しるし)の杉」にて唱えた説によると、山城国風土記に記される稲荷社草創譚は923年〜931年頃に捏造された俗説だと指摘する。

つまり、これまで信じられてきた稲荷社草創譚は奈良時代ではなく平安期に創作されたことを意味する。

伴の論考では当該、文献上に記される「イナリ」の文字に対し、「稲生」という漢字を無理矢理あてたことによって生み出された、稲荷山の神を題材としたフィクションに過ぎないとする。

平安時代

816年(弘仁7年)

社殿が建設される。

827年(天長4年)

827年(天長4年) 稲荷大神に初めて従五位下の神階が下賜された。

852年(仁寿2年)

この頃から朝廷の崇敬が増す。延喜式の制では稲荷神三座(下・中・上三社の神)名神・大社に列する。

857年(天安元年)

平安時代に成立したとされる日本文徳天皇実録(にほんもんとくてんのうじつろく)の四月条によると、「稲荷神三前に正四位下授与」の記述がある。

884年

文徳天皇の代から後一条天皇の代(850〜1025年/平安朝後期)までの歴史物語である「大鏡」によると、初午詣に多くの都人が参詣したことが記される。

898年

朝廷より十六社(伊勢、石清水、加茂、松尾、平野、稲荷、春日など)へ祈雨請願の奉幣があった。

906年頃

紀貫之集(きのつらゆきしゅう)に「ひとりのみ我こえなくに稲荷山春のかすみの立かくすらん」の歌が記される。

908年(延喜8年)

天暦三年に成立した神祇官勘文によると、藤原時平の寄進により社殿が造営される。
また、二十二社詮式には「相次 延喜八年、故贈太政大臣 藤原朝臣 修造件 三箇社者也」とし、三柱の神を奉安する三社殿が修営されたと記す。
なお、平安期を通しての社殿の状況は明らかにされていない。

923年

拾遺和歌集(しゅういしゅう)巻十九に「いなりにまうてあひて侍りける女の、ものいひかけ侍りけれと、いらへもし侍らさりけれは」との歌人・平定文の歌が記される。※平定文は当年に死没。

927年(延長5年)

名神大社(国家鎮護の社)叙せられる。

940年(天慶3年)

従一位の社格(神階の最高位)が授与される。

942年(天慶5年)

正一位の社格(神階の最高位)が授与される。

963年(応和3年)

都の巽(京都の東南の方角)を鎮守する神社として定められる。

966年(康保三年)9月、右大将道綱(藤原)の母上が著した蜻蛉日記(かげろうにっき)には、下・中・上(はての社)という順番で社参したことが記される。これは三社の社殿の位置がそれぞれ別の場所にあることを意味し、下社が山の入口、中社は山中、上社は山上にあることをプンプンと5日間 大切にはきつづけたパンツの如くに匂わせる。…ホンマに臭い その前になんで知っとる

983年

源順(みなもと の したごう/三十六歌仙の一人)が家集(源順集)に初午詣の一首を記す。「稲荷山尾上にたてるすきすきに ゆきかふ人のたえぬけふかな」※源順は当年に死没。

1000年

清少納言が枕草子に二月発午の日に稲荷山へ登拝したが、体力的限界からか、”中社”の辺りで”注射”を打った後の如くに立ち上がれなくなり、登拝を諦めて引き返したことを記す。

1039年(長歴3年)

※二十二社の上七社に列される。(「上七社」とは、社の格式の順番のこと。1.上七社 2.中七社 3.下八社)
二十二社とは、国家の重大事が起こった時、朝廷から特別に奉幣を受けた22の神社のことを指す。

平安後期から鎌倉時代

1066年

藤原明衝(ふじわら の あきひら)が新猿楽記(しんさるがくき)に稲荷明神の眷属となった狐(稲荷山の阿小町/あこまち)のことを記す。
「雲州消息(うんしゅうしょうそく)」には「四月の稲荷祭に先年依成人誘引密々見物 尤有興之事也」と記す。※藤原明衝は当年に死没。

1068年(治暦四年)

1068年(治暦四年)

後三条天皇が稲荷社・祇園社(現・八坂神社)の両社へ初となる行幸をされる。

以来、後白河、後鳥羽上皇をはじめとした稲荷・祇園 両社への行幸が鎌倉時代まで半ば行事・慣例的に継続された。

なお、この頃の稲荷社は神社でありながら山城・美作・備後・加賀・越前・美濃に荘園を領し、さらに周辺にも多くの神田を有したと伝わる。

1109年(天仁二年)

藤原宗忠が1087年(寛治元年)から1138年(保延四年)の間に著した中右記(ちゅうゆうき)の11月10日条、ならびに「台記(たいき)」の1184年(久安四年)の7月2日条、or台記別記の久安四年の7月11日条などには、稲荷山の山上(山頂)から山下(麓)にかけて3つの社殿が存在したことを示唆する。

下社(山下/麓)を中心としながらも、山中と山上(山頂)にも社殿を築き、奉斎していたとする説が有力視される。

下社が中心とされていた根拠としては、蜻蛉日記の著者・右大将道綱の母が認めた次のような一文がある。

まず、下の社(本殿)に いちじるき山口ならば、ここながら 神のけしきを みせおとぞおもふ

どうやら道綱ママは山口にある下の社を本殿と勘違いしていた模様💘

1180年前後(治承年間/平安末期)

1180年前後(治承年間/平安末期)の後白河上皇の歌謡集として知られる梁塵秘抄(りょうじんひしょう)には「稲荷を はみつのやしろと聞き、しかど今は五つの社なりけり」‥などと、当代にはすでに現行に見られる5社の存在があることをプンプン、プンプン!‥っと、焼肉後の歯間に挟まった牛肉の激臭が如くに臭わせてい‥‥‥申す。くちゅぁ(激臭だけに)

1087年(寛治元年)から1138年(保延四年)

藤原宗忠が1087年(寛治元年)から1138年(保延四年)の間記した中右記(ちゅうゆうき)によると、田中明神の神木が、わずかに枯れたと記し、今日の研究ではこれが田中明神社における最古の記録だとする。

1148年(久安四年)

台記別記によると当年7月11日、稲荷社と春日社に参詣した藤原頼長は、稲荷社では下社、次いで中社・上社へ奉幣し、最後に下社へ戻ってきたことが記される。

やはりこの当時、山口に下社、山中に中社、山頂に上社が存在したことにな〜る。

1150年(久安六年)

当年4月26日に藤原頼長が参詣した折、下社で田中社の奉幣、中社では四大神(しのおおかみ)への奉幣を追加し、次いで上社へ向かった様子が記される。

稲荷五所大事聞書では三社のうち、下社が中心的社殿とし、本殿にて相殿(あいどの)もしくは別棟(べつむね/別個の建物)で奉祀されていた事実を匂わせる文面がみられる。

1161年(応保元年)

平安末期の公卿・中山忠親が著した山槐記(さんかいき)には後鳥羽上皇が七条東洞院にて稲荷祭を見物した様子が記される。

1187年(文治三年)

吾妻鏡によると1187年(文治三年)8月、社殿修造のために計画が練られたことを記す。

1190年(建久元年)

当年2月10日条の「安田義定申状」には、建久元年(1190年)に下・中・上それぞれの社の正殿が同時期に檜皮葺(ひわだぶき)で造営されたことを記す。

1245年(寛元三年)

百錬抄(ひゃくれんしょう)によると、11月29日に社殿が焼失し、翌年には再建されたことを記す。(わりと小規模な火災だったのか。社殿がそれほど無かったのか。工事の規模も未詳)

1264年〜1275年(文永年間)

田中大神(摂社)と四大神を加え、稲荷社五座となる。

1266年(文永三年)

増鏡(ますかがみ/南北朝時代に成立)の巻七、ならびに一代要記(1274〜87年/後宇多天皇御代に成立)によると、台風により中社が被災したことを記し、鎌倉時代における中社の存在性を如実に物語る。

平安期の稲荷社は東寺庇護の下、殷盛極まった

平安時代の稲荷社にとってもっとも大きな出来事となるのは、教王護国寺(きょうおうごこくじ/東寺とうじ)を守護する鎮守神として位置付けられ、原初的稲荷信仰と真言宗とが習合し、新興稲荷信仰or真言宗としてリリースされた事実は当社に大きな変革をもたらしたといえ〜る。

平安期成立の類聚国士(るいじゅこくし)によると、826年(天長三年)、造 東寺別当(ぞう とうじべっとう)であった弘法大師・空海は、五重塔造営の建材を稲荷山の神木に求めた。(”当時”の”東寺”境内には金堂(本堂)一宇のみが建っていただけの有り様だったらしい)

ところが神木伐採の咎が原因で当代天皇が病気になり、已む無く朝廷は稲荷山の神に神格と従五位下の神階を贈って陳謝した。だグぁ、この一件が稲荷社と東寺とを結びつけた。

特に密教的尊格を有する荼枳尼天(ダキニ天)と稲荷信仰とが結びついた事実はあまりに有名なエピソードとして知られる💘

ビキニ‥ではなく、ダキニ天!!が乗る白狐や、使令する2匹の狐(銀狐&金狐)は、稲荷神が使令する神使or眷属のキツネちゃん🦊コンっ ‥‥を想起させる。 ふぅ💋




平安期は稲荷詣が流行した

平安末期の後白河上皇の歌謡集として知られる梁塵秘抄(りょうじんひしょう)には「君が代は千代も住みなん稲荷山 祈る験のあらんかぎりは…」などと初午の日の様子を歌詠する。

また、清少納言も自身の著書「枕草子」で記すように、中の御社あたりの石階段が登れずに断念して引き返したことや、その道中に出会った人々のことをも書き記し、盛行する稲荷信仰の有り様を伝える。

同時に平安時代中期には中社(中の御社)が稲荷山の中腹に実在したことを物語〜る。

しるしの杉

それと忘れてならないのが、「いなりやま おほくのとしぞこえにけり いのる しるしの杉をたのみて…」 などと蜻蛉日記にも記されるように初午の日には稲荷山の杉を持ち帰り自邸の庭に植えて吉凶を占う風習があった事実。

かの平清盛も稲荷山の杉枝を手折って懐の中に忍ばせて戦勝祈願・自家興隆を祈願したように稲荷信仰の殷盛極まる様子がうかがえる。

南北朝時代

1334年(建武元年)9月

社領加賀国針道荘が安堵される。

1336年(建武元年)9月

後醍醐天皇、京都御所から吉野へ身を移す時に当社へ参拝。
当社の”おみくじ”「七番(凶後吉)」にも記される通り、『むば玉のくらき闇路にまよふなり われにかさなん 3つのともしび』との句を詠む。

室町時代

1438年(永享10年)

後花園天皇の勅命により、室町幕府6代将軍足利義教が稲荷山山頂の稲荷大神の祠を山麓に移す。

1467年(応仁元年)

「応仁の乱」が勃発。

1468年(応仁2年)

応仁の乱後、もと稲荷山に鎮座していた上社・中社・下社の3社と、田中大神・四大神の2社が現在のように合祀され5神が相殿の形式になる。

大沢重胤などが著した「山科家礼記(やましなけらいき)/1412年(応永十九年)〜1492年(延徳四年)」の1468年(応仁二年)3月20日条には応仁の乱にて稲荷社境内が灰燼と化した事実を記す。

また、この文書では当時の神主(宮司)「荷田延幹」が東軍に見方し、東軍の武将「骨皮 道賢(ほねかわ どうけん)」が稲荷山を陣地とすることを認めたこと、そして、その代償として山上・山下(麓)の社殿群の半数以上が倒壊・焼亡に到ったことを記す。

1475年

応仁二年より文明七年(当年)まで戦争の影響で稲荷際の神輿渡御出来ず。

1476年

稲荷祭の神幸祭が再興される。

1482年(文明十四年)

白川資益が著した1474年(文明6年)~1484(文明16年)の日記である資益王記(スケベでおますOH!きみは‥‥ではなく、/すけますおうき!!)の閏7月21日条によると、大風によって中社社殿が転倒し、上御殿に移座・合祀された事実が記される。エゲつなぃ間違え方

これは山中にあった中社が、いずこかにあった上御殿へ移座したことを意味する。
推考されている説としては、当時、山下の本殿には3つの社殿が別棟で建ち、その背後に位置する上御殿に遷座した。
または山中から逆に山上にあった上御殿へ持っていった。
もしくは、すでに下社に移座していた空の中社が転倒した‥etc。

1486年(文明十八年)

土一揆が勃発し、稲荷社境内の被害甚大と記す。稲荷大社の神宮寺的な立場であった東寺(とうじ)伽藍へも被害が及び、伽藍焼失に到る。

1492年

稲荷社本殿の修営が開始される。

1494年

稲荷社本殿が五間社流造・屋根は檜皮葺にて落慶を迎える。

1499年(明応8年)

現在の本殿が復興する。

稲荷社事実考証記には明応八年(1499年)11月、「明応八年十一月、上下御殿造営成畢(落慶)、同月廿三日遷宮也、按此時造営、依為用脚不足、始而為下中上社相殿」と記されるように遷宮が執行されたことを表す。

注目すべきは「上下御殿造」と記すのみで中社の記載が無く、上社or下社へ上中下の社殿を合祀(相殿)したことになるが、その実態は判然としない。

1571年(元亀2年)9月

伏見城城代・三淵藤英、当社へ横暴をはたらき、室町幕府へ糾弾の意を上申す。

安土桃山時代

1588年 

太閤秀吉、大政所(生母/”「仲」という名前だった説がある)の病気平癒を祈願し、稲荷社ならびに諸社へ社参す。

また、楼門の建造を命じる。

現在の楼門は秀吉がこの時に建造したものだと伝わる。

1589年(天正17年)

太閤秀吉、当社へ信仰心を露わにし社領として106石と社殿修理費用を寄進する。さらに「朱印領(特別に認められた寺社の所有地)」として永久安堵を約束す。朱印地に関しては以降、江戸期になっても徳川政権へも引き継がれる。この様相は明治初頭まで踏襲される。

1594年(文禄3年)

伏見稲荷大社境内に存在した「地蔵院」の僧「覚圓」が「伏見稲荷本願所」を立ち上げる。

江戸時代

1633年(寛永10年)

4月21日、天阿上人(日雄)が伏見稲荷本願所の第3代目住職に就任。天阿上人、伏見稲荷本願所から→「別当寺・愛染寺(愛染院・持福院)」へと名称を改める。
天阿上人が住職に就任したことで稲荷信仰が日本全国に広まる。
ただ、この当時の稲荷信仰は俗に忌み嫌われる「キツネ憑き祓い」の要素が濃かった。

1635年(寛永十二年)

権殿(重文指定)の再建成る。五間社流造で屋根は檜皮葺と、本殿を小さくしたような格調高き建築で再建された。

1694年(元禄七年)

江戸幕府主導により本殿以下の修営を開始す。

明応七年12月12日には、当修営において上御殿の内陣より秦姓の三神主による願文「秦氏 社司 等 恐々畏申上」が発見される。

この内容により元来の稲荷社社家たる秦氏(本家/大西・松本・森)と荷田家(荷田延秀・荷田延憲※惣目代)らが、社内にて権力闘争を繰り広げていた事実が明らかにされた。

どうやらこの明応の修営においての記録としては、荷田延秀・延憲が連署した明応遷宮記なる文書が現存し、本来の社家(本家)たる秦氏(本家/大西・松本・森)の記録がまったく見つかっていないらしい。

このような稲荷社内における”確執”は”角質”がボロボロと落っこちるかのごとく、真言宗東寺の末寺である愛染寺(あいぜんじ)の絡みもあって、稲荷社内部の祭祀掌握権は複雑だったとみれる。

なお、当年に北回廊(重文指定)も建立された。(桁行五間、梁間一間、一重、切妻造で、屋根は檜皮葺)

1774年

稲荷祭にて神輿渡御が復興される。

1840年(天保十一年)

外拝殿(重文指定)の再建成る。

1862年

当年の火焚祭(ひたきさい)にて御神楽(みかぐら)が約300年ぶりに再興された。

江戸時代の稲荷大社の組織

安藤希章氏の「神殿大観(SHINDEN)」には次のように記される。

下社神主、中社神主、上社神主、御殿預、目代の正官5人が筆頭、その下位に禰宜、祝、権御殿預、権目代など12人、さらにその下位に神人5人が所属。

上社神主は秦氏の安田家、大西家、松本家、毛利家の輪番制。
(神主とは現在の宮司に相当。「社務」とも呼ばれた。)

御殿預は荷田氏の東羽倉家
(御殿預とは神社の財務、社殿の管理を担当。)

目代は荷田氏の西羽倉家
(目代とは神社の財務、社殿の管理を担当。)

‥‥以下、省略。

その属下の下級神職に荷田氏がいたが、位階昇進についても歴然とした差があったらしい。

職位

秦氏は稲荷大社を創建した氏族として創建以来、神主として社の運営・興隆を担ったと思いきや、安藤氏の神殿大観によると稲荷大社の歴代神主を次のように記す。

歴代生没年在職年略歴
1荷田殷雄略天皇皇子の磐城王の末裔(伝)。稲荷山の地主とされ、711年(和銅四年)の稲荷社鎮座後、祠官となって奉職す。後に荷田社祭神と祀られる。
2荷田嗣天平年間。後に荷田社祭神と祀られる。
3荷田早延暦年間。後に荷田社祭神と祀られる。
4荷田龍弘仁年間。荷田大夫(荷田太夫)と称する。俗称:龍頭太。817年(弘仁八年)に12月13日死去(伝)。後に荷田社祭神と祀られる。
38羽倉延秀?-15001485-(伝)38世。修理亮。1485年(文明十七年)9月に御殿預(明応年間とも)として奉職。1500年(明応九年)8月に死去。

神殿大観によると稲荷山の地主であった磐城皇子(いわき の みこ)の末裔とされる荷田殷が、稲荷社創建時より稲荷社の神主として奉職。以後、室町期まで荷田氏が神主を世襲とある。

だグぁ!

正史?‥では、秦氏が創建以後、歴代の神主を世襲、その下位神職には荷田氏がいた。室町期になって新たに奉職(神職になった)した羽倉氏(羽倉延秀?)が荷田氏を冒称し、やがて神主の座に就任。以後は羽倉氏が神主を世襲。‥‥はてさて

明治時代

1868年(慶応4年/明治元年)

明治政府により「神仏分離令」が発令され「廃仏棄釈(はいぶつきしゃく)」の動きが生じる。
結果、伏見稲荷大社を管理していた別当寺の愛染寺(あいぜんじ)が廃寺になる。
このとき社内にあった仏殿、仏像の一部が、現在の泉涌寺・別院「雲龍院」に移管される。
以降、稲荷信仰は今日に見られる「神道形式の稲荷信仰」へと変わっていく。
※廃仏棄釈・・仏教・寺院・仏像・経巻を破棄・廃棄して、僧侶や尼僧など出家した人や寺院が受けていた特権を廃止すること。
また、1867年(慶応3年)〜1889年(明治22年)の一般的に明治維新とされる期間中に「上知令(あげちれい)」が発布される。この発令により稲荷山の山上・麓周辺など約26万坪あった社領が、2万坪を残してすべて明治政府に収公された。
※上知令・・江戸時代に特権を公認されていた寺社の土地を没収する法令。

想定外の主祭神に驚いた。伏見稲荷大社の「歴史や由来」と「作った理由と作ったのは誰?」【年表付き】

1871年(明治4年)5月

官幣大社(天皇直々の奉納品を受けるほどの大きな神社)に列される。

1873年

明治維新の影響により、明治二年9月に触出された稲荷神の勧請・遷座禁止令が解かれる。(勧請・遷座が認められた)

1874年

江戸幕府との交渉の末、境内地が116593坪と認められる。(稲荷山は将軍家御用とされた松茸の産地だったこともあり、江戸幕府の天領でもあった)

1877年

稲荷山三峰に神蹟標石が奉建される。

1902年(明治35年)

明治政府と交渉を重ねて旧社領の一部が返還される。

1903年(明治三十六年)

境内の東丸神社(稲荷大社社家の荷田春満を祭神として祀る)が府社に列し、国学者・荷田春満の実績に対応する形で学問の神としての神格を不動のものとした。

1906年(明治三十九年)

外拝殿に黄道十二宮をモチーフとした12基の鉄製灯篭が奉納される。

1909年(明治42年)

昭和4年3月28日に施行された「国宝保存法」により、当社、本殿が国宝指定を受ける。なお、現今に至っては昭和25年5月30日に施行された「文化財保護法」により、重要文化財指定へ変更される。

大正時代

1917年(大正六年)

松の下屋(京都市指定有形文化財)が建てられる。

1919年(大正八年)には茶室「瑞芳軒」(京都市指定有形文化財)、供待(京都市指定有形文化財)、表門(京都市指定有形文化財)も順次、造営される。

昭和時代

1927年(昭和二年)

4月25日、伏見稲荷大社御茶屋が重文指定を受けるに到る。

1946年(昭和21年)

「宗教法人・伏見稲荷大社」に改称。なお、今日に見られる伏見稲荷大社は伊勢神宮を中心とした神社庁の組織には与しておらず、独自の組織を持つ単立社である。

1961年(昭和36年)

内拝殿が造営される。向拝(こうはい)唐破風(からはふ)が現在のように正面に据えられる。また、本殿が明応期造営当時の姿に復原される。

1962年(昭和37年)

明治35年に引き続き、旧社領返還について政府と交渉の末、旧社領26万坪すべてを回復す。

1963年(昭和三十八年)

参集殿(稲荷大社直営の参拝客専用の宿泊施設)が建造される。

平成時代

1994年(平成6年)

松の下屋内部の紙本墨書伏見稲荷大社絵図(桃山時代 作)が4月1日に京都市有形文化財の指定を受ける。

1999年(平成11年)

上述、明応年間に造営された御本殿(復原)が造営500年を迎え、「造営500年記念大祭」斎行される。

2002年(平成十四年)

4月1日、板絵著色繋馬図長澤盧雪筆(絵画/江戸時代 作)が京都市有形文化財の指定を受ける。

2003年(平成十五年)

4月1日、稲荷祭山車「天狗榊」懸装品 10点が京都市有形文化財の指定を受ける。

2011年(平成23年)

伏見稲荷大社、当地に御遷座1300年記念大祭が斎行される。

2013年(平成二十五年)

2013年に実施されたトリップアドバイザーによる「外国人に人気の日本の観光スポット」調査では見事2位に輝く。(1位は広島平和記念資料館)

2014年(平成二十六年)

2014年に実施されたトリップアドバイザーによる「外国人に人気の日本の観光スポット」調査では広島平和記念資料館を抜いて見事1位を獲得す。
以後も2019年まで6年連続で1位を獲得する偉業を達成す。

2014年(平成二十六年)

🦊1月27日に権殿・外拝殿・楼門・南北廻廊(南廻廊)・南北廻廊(北廻廊)・奥宮・白狐社が重要文化財の追加指定を受ける。

🦊3月31日、伏見稲荷大社松の下屋が名勝指定を受ける。

2018年(平成三十年)

3月30日、伏見稲荷大社松の下屋及び茶室(瑞芳軒)、門1棟、供待1棟が京都市指定有形文化財の指定を受ける。

2020年(令和二年)

参集殿が耐震基準を満たしていないなどの理由により、同年5月を以って閉館す。

現在はすでに解体され、建物は皆無。(建物は現在の境内入口表参道脇の大駐車場の奥に位置した)




京都・伏見稲荷大社ができた理由

「山城国風土記逸文」の記述に見られる創建理由

山城国風土記 逸文・伊奈利の社条(いつぶん・いなりのしゃじょう)」という古書物には、以下のような伏見稲荷大社創建説が記載されています。

稲や粟などの穀物を収穫しそれを売買することで財を成した、京都市深草に居処する長者であり、はたまた秦中家忌寸の子孫とされる「秦氏の末裔・秦伊呂具(はたのいろぐ)」という人物がいました。

冒頭でも述べたように秦氏は大陸の進んだ文化や技術を用いて、日本においても大出世を果たした氏族であり、代表例として聖徳太子の参謀を務めた秦河勝(はたのかわかつ)などの人物の活躍が有名。伊呂具はその子孫とされてい申す。ひゃひょ

なお、この秦伊呂具という人物の出生については諸説あるようで、稲荷大社に伝わる『稲荷社神主家大西(秦)氏系図(いなりしゃかんぬしけおおにし(はた)しけいず)』によれば、賀茂建角身命(かものたけつぬみのみこと)の子孫の第24世「賀茂県主(鴨県主)久治良(かものあがたぬしくじら)の末子」との記述が見られます。(秦氏が深草の地を賜る前は賀茂氏が当地を支配したと云われる)

ある時、秦伊呂具が矢を射る的を探していたところ、餅を空へ投げて的とすることを思いつき、その餅を弓矢で射ようとしました。

そしていざ餅を投げて見事、餅を射止めるわけですが・・、なんと!突如、餅が白鳥に変化して山の向こうへ羽ばたいて飛んで行きます。

無題

その後、その白鳥は小山に降り立ちますが、不思議なことに白鳥が降り立った場所には稲が生えたとな。

伊呂具はその白鳥と稲、そして自らとの間に不思議な所縁を感得し、この場所に祠(ほこら)を建てて祀ることにした。

この祠こそが現在の伏見稲荷大社の起源・前身であり、小山は現在の稲荷山だと伝わる。

城南宮にも白鳥が降り立った?

同じ伏見区の城南宮の境外摂社「飛鳥田神社(あすかたじんじゃ)」にも白鳥に関わる次のような稲荷大社の草創譚と類似した故事が伝わる。

荷田龍頭田(かだのりゅうとうだ)の田圃(たんぼ)に白い鳥となった荷田氏の祖霊が稲の実を口に咥え込んで飛んできた。

奇瑞を感得した荷田龍頭田は祖霊(祖先の霊)を奉斎するための「飛鳥田神社」を創建した。
※荷田龍頭田:龍頭太=荷田龍頭

秦氏とは❓

秦氏は大陸から我が国へ渡来したのち、関西圏(主に京都・太秦)を根拠地として歴代の朝廷に仕え、朝廷からは官職と官位を授与され、栄華を誇った一族です。

秦氏は朝鮮から日本へ来朝した後、大陸で培った養蚕や紡績技術などを伝えたと云われるが、とりわけ治水技術や機械製造技術には秀逸したものがあり、やがて帰化が認められると、倭人(日本人)として姓(かばね)や社会的地位、そして生活の拠点となる土地を与えられた。

特に洛西・太秦(うずまさ)に秦氏の族長と目される秦河勝(はたのかわかつ)が、自族の氏寺として609年に広隆寺京都市右京区太秦蜂岡町)を創建したエピソードは有名❤️

また一族の氏神社として「松尾大社(京都市西京区嵐山宮町)」を創建する。

ただ、おそらくこの当時から京都盆地は水害に悩まされていたと考えられるが、秦氏は大陸で培った治水技術のほか、灌漑(かんがい/水を効率よく田に引き入れる)にも技術力を発揮した。

実際に桂川では秦氏が施工したとみられる大規模な堰(せき)の痕跡も検出されたらしいが、流量が著しく変化する桂川の川容に対処しきれず、度々、堰が決壊したとみられ、天皇も長岡京をわずか10年で捨て去る結果を生んだ。

そして794年(延暦十三年)に平安遷都が実現すると、以後は明治初頭までの間、京都は我が国の首都となった。秦氏も711年(和銅四年)2月に自族の氏神となる伏見稲荷大社を創建したが、これは秦氏が信仰した神奈備(かんなび)の影響で単に自領の山神を奉祀したとも考えられる。

深草に広大な田地を領有した秦氏

秦氏は深草近郊に広がる広大な田地を領有していたとする説がある。

秦氏は渡来当時、奈良にあった朝廷より深草や太秦などを含めた京都盆地に土地を与えられ、自慢の大陸で培ってきた土木技術を駆使して、京都盆地を開発し、農耕地などを造成した。

当時の深草にはヤマト政権の官有倉庫である屯倉(みやけ)が置かれるなど、田地が広がっていた様子や、もう少し想像力を豊かにすれば、秦氏が屯倉運営に関わる役人であった背景がうかがえる。

もし、伏見に田地が広がっていた実態が事実なのであれば、五穀豊穣を司る神として、神奈備信仰における山神(稲荷山の神)を信奉したとする推論も成り立つ。(つまり、五穀豊穣の神と稲荷神を”集合”させるかの如く、史上はじめて”習合”させたと解する)

松尾大社を創建した人物が秦伊呂具

秦氏の族長は「秦河勝(はたのかわかつ)」とされますが、京都地域を統治した長に「秦忌寸都理(はたのいみきとり)」と人物がいたとされ、この人物こそが松尾大社を創建したとされています。

この秦忌寸都理の弟が上述の「秦伊呂具」になります。

稲荷社は秦氏の神奈備信仰の一環で創祀された

稲荷山からは古墳が発見されている事実を以てしても推定できるように、太古より豪族が支配した根拠地であった事実は疑いようがなく、それが秦氏だとすれば歴史の変遷と照応する部分は多い。

たとえば、平安中期に編纂された著名な延喜式神名帳(えんぎしき じんみょうちょう)には「稲荷神社 三座(いなりのかみのやしろ)並名神大、月次(つきなみ)、新嘗(にいなへ)」と記し、平安中期には三座の存在性とその祭祀、または当社が式内社だった事実を表す。

また、清和天皇、陽成天皇、光孝天皇の3代である天安二年(858年)8月から仁和三年(887年)8月までの30年間の歴史をまとめた日本三代実録(にほんさんだいじつろく/平安期成立)にも「稲荷三段」の記述が見られるように、平安期の稲荷社における三座(三ヶ峰、三つの社)の存在性を仄めかす。

そのほか、吉田神道の創始者として知られる吉田兼倶が1469年(文明元年)に撰した「二十二社註式」の稲荷社創祀の項によると、「和銅四年(711年)二月初午日の創祀」または「三箇社者也」と記すように711年の創建時より3つ社の存在を表す。

稲荷社蔵絵図には上之社、中之社、下之社と記し、1450年頃の稲荷山山頂図には、一ノ峰、二ノ峰、三ノ峰と記すことから、これらは三つ山と三つの社を示すものと推測できる。

以上のように何らかの権力者の力が氏族の祭祀対象として稲荷山に及んだことが推考される。

稲荷山の古墳と秦氏の関連性

これまでの同地における調査研究では稲荷山の古墳は四世紀後半(西暦301年から西暦400年までの100年間)に築造されたものだとする。

新撰姓氏録によると、秦氏は仲哀天皇8年に中国 秦の始皇帝の後裔(11代の孫)にあたる功満王(こまおう)が来朝(渡来)してきたこと、そして、秦の始皇帝を秦氏の祖先であるとも記す。
(「日本三代実録」には応神天皇十四年(西暦283年)に渡来と記す)

その後、応神天皇十六年(西暦285年)8月には功満王の子・弓月君(ゆづきのきみ)が百済より百済127県の民(国民)を率いて渡来してきたことが、日本書紀に記され〜る。

日本書紀に記される経緯

🦊応神天皇14年是歳条

百済から弓月君(ゆづきのきみ)が来朝して天皇に謁見し、次のように奉上した。

『百済国127県の民とともに帰化を望むが、新羅に邪魔をされて渡来できない。』

天皇は弓月君の帰化を認めた上で、襲津彦を加羅に遣わしたが3年経っても戻らなかった。

🦊応神天皇16年8月条

天皇は襲津彦が帰国しないのは新羅が入国を阻んでいるからだとし、平群木菟宿禰(へぐりのつく)と的戸田宿禰(いくはのとだ)に精兵を与えて加羅へ派兵した。

ほどなくして新羅王は降伏し、弓月君は民を率いて襲津彦と共に日本へやって来た。

弓月百済の民が居住した地域

弓月百済の民は日本への来朝後、ひとまずは葛城(現在の奈良県御所市・葛城市)に居住したとされるが、これは弓月百済の民の帰化を支援した葛城 襲津彦(かずらき の そつひこ)の根拠地だったことに起因する。

その後、山城国葛野郡(かどのぐん)太秦(うずまさ)あたりに土地を与えられ、当地を本拠地として養蚕や機織、土木、砂鉄、銅等の採鉱・精錬、製薬などに技術力を発揮し、一族大い繁栄した。

その他の具体的な地域としては、大和、山背国葛野郡(現在の京都市右京区太秦)、山背国紀伊郡(現在の京都市伏見区深草)、河内国讃良郡(現在の大阪府寝屋川市太秦)、摂津国豊嶋郡、針間国(現在の兵庫県)、四国(阿波国、伊予国)などが挙げられる。

特に深草の地について言及するならば、当地は古くから埴土(はにつち/粘土)の採掘場所として知られ、瓦など焼き物の製陶が盛んな地域だった。(埴土を使用して作られた伏見人形が有名💘)

以上の事柄をまとめて稲荷山の古墳の持ち主を想定した場合、秦氏やそれ以前に当地を支配した賀茂氏の名前が挙がる‥‥グぁ!

現時点では秦氏が築造した古墳だと説明する方が、歴史の変遷と照応する部分は多い。

秦氏の信仰

🦊稲荷社の創建

秦氏は平城京が常在した大和国は三輪山(奈良県桜井市)あたりで盛んだった神奈備信仰を崇拝していたという説がある。

秦氏は日本への帰化後、いち早く日本人になるべく、日本文化を尊び、その中には宗教もあった。

たとえば、我が国における原初的自然信仰の一つである神奈備(かんなび)がまさにそれであり、五穀豊穣を祈願して周辺ではもっとも標高にある稲荷山に神を祀った。

それが今日の伏見稲荷大社の起源であり、発見された古墳はその祭祀に利用したとする見方もでき〜る。

🦊深草寺の創建

ほかに「深草寺」の存在も忘れてはならぬぅあい!

当寺は秦 久丸が一族の氏寺として現在の深草中学校のあたりに創建した幻の寺とされる。(現存せず)

 

現在の深草には賀茂氏が居住した歴史はほぼ皆無

賀茂氏は稲荷山にある古社や現今の藤森社に僅かな名残りを残しつつも、京師北側の地(上下賀茂神社)へと移住し(もしくはそれ以前から居住していた)、以降の深草の歴史上からは姿を消す。(賀茂氏はこれ以後、衰退する)

その賀茂氏の入れ替わる形で朝廷から土地をもらって新たに深草の主人となったのが、朝鮮移民の秦氏となる。

面白いのはかつての葵祭(原初の賀茂祭)は711年(和銅四年)4月に詔が出されて国司検察の上、国祭として開始される事が決定したという事実。

そして、そのわずか2ヶ月前‥、和銅四年/711年の2月初午日といえば稲荷社が創祀されてい‥申す。きゃ

また、往時の稲荷社は本殿に相殿される5柱の祭神が稲荷山の上中下に別れて祭祀されていたが、これは今日にも見られる賀茂社の有り様(上下)にも例えられるグぁ‥‥これは偶然なのか? はてさて

とりわけ平安京が草創されたのが794年(延暦13年)で、秦氏が稲荷の神を奉祀したのが711年(和銅四年)。

秦氏や賀茂氏が約80余年もの歳月をかけて支配・開発した京都盆地(特に洛北地域)は当初、扇状地だったらしく、水田を造成・稲の栽培には不向きだった。

それと忘れてはならないのが、現在の伏見城のあたりには巨椋池と呼ばれた巨大な池が広がっていたが、池周辺は湿地帯だった様子がうかがえる。(この池は昭和の初めに枯渇して現存しない)

このような状況の京都盆地を秦氏や賀茂氏らが、なんとか開発して天皇を招き入れて平安遷都が実現したならば、歴史の変遷から見ても違和感は無い。

「秦」の姓が歴史上から姿を消す

日本の中央政界である朝廷に実績を認められた秦氏は、朝臣の氏姓の一つである「惟宗氏」が与えられ、日本三代実録の元慶七年十二月(西暦884年1月)によると、秦宿禰永原、秦公直宗、秦忌寸永宗、秦忌寸越雄、秦公直本らが惟宗を名乗ったことが明記されてい‥‥申す。おひゃ

以後、名作映画を見て泣きベソをかくかの如くに栄華を誇った「秦」という氏族は歴史上から姿を消す。 このタイミングでなんで映画や

たグぁ!

惟宗氏を例にとった場合、島津氏(南九州)や宗氏(そうし/対馬)がその後裔とな〜る。




「秦氏」の名前の由来とは?

渡来後の弓月百済の民は大陸の技術を用いて養蚕や織絹に従事し、朝廷よりハタ(肌)のように柔らかく温かった織絹の品質を高評価され、ハタ(肌)=「波多(絹織物はスベスベして波が多い)」の姓を下賜されたとする。

秦氏は秦の始皇帝の子孫ではない?

815年(弘仁6年)に、嵯峨天皇の命により編纂された古代氏族名鑑の「新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)」によると秦氏は「中国・秦の始皇帝の末裔」と記される。

ただ、現今の研究においての秦氏の出自は百済人である説が有力であり、秦氏が我が国においての立場を優位にすべく、秦の始皇帝の末裔を冒称(ぼうしょう/勝手に他の姓を名乗る)したに過ぎないとする説がある。

稲荷神が最初に降臨したのは稲荷山ではない?!

高野山大学図書館が所蔵する持明院寄託本「稲荷記」には次のような記述がみれらます。

稲荷大明神が最初に出現した場所は「紀州田辺の王子」であり、このとき弘法大師・空海とはじめて対面している

この記述を信じるならば、最初に稲荷大明神が降臨した地は「紀州田辺の王子」ということになり、また、稲荷大明神が地上に降臨した後、はじめて対面した人物が弘法大師・空海ということになる。うきゃ

紀州田辺の王子の場所(地図)

伝承にある紀州田辺王子という場所は実のところ、現在では判然としない。

しクぁし!

驚くことに紀州田辺市の「高野山真言宗・高山寺」には寺伝として当伝承が語り継がれており、だとすれば高山寺こそがその伝承地である可能性が高いことになる。

高山寺のINFO

所在地:和歌山県田辺市稲成町392
山号:正南面山
宗派:真言宗御室派
本尊:大日如来
創建年:飛鳥時代
開基:牟婁の長者
中興:空増上人
正式名:正南面山高山寺
別称:田辺大師・厄除け大師

高山寺の山門に陰刻される石碑

高山寺の山門には次のような文字の陰刻がある石碑が建つ。

弘法大師 稲荷明神 値遇之霊蹟

石碑の内容(意味)

『弘法大師(空海)と稲荷明神は、前世よりの導きによって宿縁を結実させたのが当地であり、その石碑はその証を示したものである。』

※値遇(ちぐう)とは、前世の宿縁によって現世で出会うこと。 また仏縁ある者に会うこと。

さらに驚くのはこの高山寺が建つ土地の名前です。高山寺の住所地を見ると次のように表記される。

『和歌山県田辺市稲成町392』

注目すべきは”稲成町”という漢字であり、意味を紐解くと、『”稲成”=”稲が成る”』となる。

さらにこれが転じると「稲成→稲成り→稲荷」というようにもみられる。

これらの事実から推考できることは、稲荷明神の降臨は脚色されたフィクションであったとしても、こと当地にかぎっては稲荷大明神と弘法大師・空海との間に深い所縁があったと認めざるを得ないことになる。

稲荷社の創建年や創祀された場所は判然としない

これまでの歴史の変遷で述べたとおり、稲荷社は数多の貴族の日記などに記されるなど、その殷賑極まりなき盛行ぶりは理解できる。

だグぁしクぁし!

フタを開ければ創建された年や、創建された正確な場所もは諸説あって判然とせず、そのいっさいが未詳とされる。(これまでで述べてきたのはあくまでも俗説の域を出ない)

稲荷社創祀に謎がつきまとぅ大きな理由の一つとして、応仁の乱にて境内が灰燼に帰し、それまでの史料を亡失したことが大きぃ。まことに残念なかぎりである。

稲荷社創祀の推定される場所

これまでの稲荷社における歴史の変遷をまとめ見ていくと、以下の2説が考えられる。

🦊山上(山頂)に神が降臨してそのまま山上で創祀され、その後に山下(麓)が発展して本殿が山下に営まれたとする説

🦊山上に神が降臨したが、山下(麓)に山上を遥拝(ようはい/離れた場所で礼拝する)する社殿が建てられ、後に中腹と山上に子社が営まれたとする説

現在までの研究では稲荷山頂に稲荷の神が降臨したが、奉始されたは山下(麓)であり、星霜経ながら山中に中社、山上に上社が営まれたとする見解が有力視される。

稲荷社社殿の遷移

現在までの研究のほとんどは、明応年間に執行された遷宮を中心とし、それまでに社殿が営まれた場所やそこから見出せる歴史の変遷を以下に述べるように推考してい‥‥申す。ひゃ

🦊816年(弘仁七年)の弘法大師(空海)による遷座説(出典:ト部兼倶 著「藤森社縁起」)

🦊鎌倉時代の天台僧・長厳(ちょうげん/園城寺僧)による遷座説(出典:「稲荷大明神縁起」)

🦊1438年(永享十年)に稲荷社の祀官による遷座説

🦊平安期以来、現在地は変わらないとする遷座否定説(出典:京都大 福山敏男 博士)

ただ、今日までの見解では稲荷社事実考証記に見られる1499年(明応八年)11月23日に三殿を相殿して再建・正遷宮を執行したが、ほどなくして摂社の二社が合祀され、今日の稲荷社本殿に見られる五社相殿の形態が生じたとする説が有力視されてい‥‥ます。




稲荷大社の名前の由来とは?”稲荷”の意味とは?

稲荷大社の「稲荷」の名前の由来は次のような諸説あるとされる。

「稲生→稲荷」という説

「稲荷神社」の「稲荷」の名前の由来とは、既述したように「稲が生えた」という言葉が起点となり、まずは「稲生(いなせ)」へと変化した。

ただ、この稲は生長が著しく、またたく間に周囲一帯に繁茂し、稲が荷となるくらいの重量(=豊作)になったことから、「稲荷(いなり)」という言葉が生じたと云われる。

「飯成り→稲荷」という説

「飯の種=お米」とするには、まずは「稲を成らせる」必要があるという解釈から、「飯成り」⇒「稲なり」⇒と転じ、最終的に「稲荷」に着地したという説もある。

稲を背負って(荷って)→稲荷

ある時、大師が居処とした東寺へ「翁(老仙)」が訪問したが、翁は背中に稲を荷なって(背負っていた)そうな。(この老翁は稲荷の神が変化した姿とされる)

この故事に由来して「稲荷」という名前が発生したという説もある。

「稲荷」ではなく「伊奈利」という説もある!

異説としては、そもそも「稲荷」ではなく「伊奈利(いなり)」と記す説もある。

「山城国風土記(やましろこくふうどき)」のによると、「稲荷」ではなく、伊奈利(いなり)」と記されることから、根本的な概念からしてすでに異なることになる。まさに異説。

ただ、「伊奈」という文字は「稲直(いなお)」が語源とされる向きもあり、また、「利」という漢字の語源は「穀物を刈り取ること」より転じ、「鋭い」「役立つ」ことを意味するようになったと云われる。

つまり、「伊奈利」とは「稲直(育った稲)を刈り取る」を意味し、総合的な意味合いとしては稲荷と似ていることが分か〜る。

ところで・・「山城国風土記」って何?

山城国風土記とは、奈良時代初期である713年(和銅6年)5月、当代の天皇である「元明天皇」が、諸国の風土記の編纂(へんさん=編集)を命じて成立した山城(現在の京都府)の風土記になる。

風土記とは主に奈良時代に成立した、いわゆる報告書のようなものであり、趣旨としては天皇に献上するための地域の調査書を指す。

天皇ならびに朝廷はその地誌をもとに政策の策定を行ったことから、「平安京遷都」以前の山城国の「文化」や「風土」、「地理状況」を知る上では貴重な報告書ともなった。




伏見稲荷大社を造った人(建てた人)は誰?

伏見稲荷大社を造った人物(創建した人物)に関しては諸説あり、次のような説が挙げられています。

秦氏が創建したとされる説

既述のように711年(和銅4年/奈良時代)2月の「初牛(はつうま)の日」に、「伊侶巨秦公(いろこのはたのきみ)=秦伊呂具」が帝の勅命により、稲荷山にある3つの山の頂に稲荷大神を奉祀したことが起源とされる説。

淳和天皇が命じて創建したとされるされる説

平安中期に編纂された「類聚国史(るいじゅこくし)」という旧記には次のようなことが記される。

827年(天長4年/平安時代)、淳和天皇(じゅんなてんのう)が病のため床に伏せる。病に陥った原因は、東寺の五重塔を建てるための建材として稲荷山の木々を伐採したからだ

つまり、天皇は稲荷山の木々を伐採した罪業を認め、稲荷山の神に「従五位」の官位を与えて陳謝。

さらに稲荷山に祠(ほこら)を築造し、奉祀することを約束した‥‥と云ぅ。

弘法大師・空海が創建したとされる説

「東寺(とうじ)※京都駅から徒歩約10分」に伝わる「稲荷大明神流記(いなりだいみょうじんるき)」によると、次のようなことが記される。

入唐した大師は中国・唐での修行中、とある老仙と出会ぃ、再会を約束をして帰朝(日本へ帰国)する。

帰国後の823年(弘仁14年/平安時代)のこと。嵯峨天皇より東寺を賜った大師は東寺を真言密教の道場に定め、五重塔の建造を開始した。(当初、賜った東寺には本堂(金堂)しか無かったらしい)

そこで塔を建てる用材(建材)を近隣の稲荷山に求めることとし、伐採するまさにその前夜、中国・唐で出会った老仙が東寺の南門に突如として現れ、大師は突然の訪問に驚きつつも快く出迎えたのだった。

大師はまず、老仙に「柴守長者の屋敷」のある「八条二階堂(現在の御旅所がある場所)」を案内し、酒や料理を供するなど、とにかく手厚くもてなした。(柴守長者の屋敷について)

翌朝、稲荷山へ向かった大師とその一行は、すぐに木々を切り出そうとはせず、まずは稲荷山の山口(山の入口)に祠(ほこら)を築き、7日間もの祈祷を行った。

大師が祠を築いて7日間も祈祷を行った理由

大師はすでに老仙が「山の神(稲荷大神)」であることを察しており、それがゆえ、山の神たる稲荷大神を山中に祀ったのだった。

この大師が建てた祠こそが今日の伏見稲荷大社の前身であり起源とされる説となる。

伏見稲荷大社の創建はやはり711年か

ただ、伏見稲荷大社では2011年(平成23年)に”最高”にハイな気分になれるほどに「創建1300年記念祭」を盛大に”斎行”していることから、稲荷大社では711年創建説を採用していることになる。
※2011-1300=711年

711年の創建ということは、伏見稲荷大社では「秦伊呂具=伊侶巨秦公」が創建者だと認める向きがあることを示唆する。

大師の母親を祀ったとされる説

大師(空海)の母親は荷田氏の血縁とされ、その荷田氏とは、稲荷大社の神官(神主)を出自とする氏族であり、稲荷大社を創建した秦氏の末裔とも云われる。

つまり、大師と伏見稲荷大社との間には、もともと深い宿縁のようなものがあったことになる。

実は大師の母親は修行中の大師に会うために高野山に登って一宇(堂)を築き、息子の健康を毎日祈念していたほど慈愛に満ちた人物だったとされる。

その大師の母ジャは稲荷大社創建後に死没しているのだが、大師はこの後、母親を稲荷神(ダキニ天)と習合させることで慈愛の神とし、自らの宗派たる真言宗の守護神と定めたのかも知れなぅぃ。

以来、伏見稲荷大社では大師の母親の縁者である荷田氏が代々、神主を務め、当社を守護していく。

一見、関わりなさそうな弘法大師空海&東寺と稲荷大社の秘められたエピソードとなる。うきゃ

なお、このような大師と老翁にまつわる故事は1446年(文安三年/室町時代)に編纂された「塵添壒嚢鈔(じんてんあいのうしょう)」の「東寺ノ事」の項にも上記と同様のことが記され〜る。

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