太古の稲荷山は巨大な古墳で春日峠(経塚)から経筒も出た?深草遺跡との関係と謎とは❓

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稲荷山は太古の昔は「巨大な古墳だった?」

秦氏の直系とされる祠官の大西長種(1489年〜1589年/西大西家)が描いた「山上古図」によると、「神蹟(しんせき)」を「塚」と書き記しており、この事実を以ってして室町期〜織豊時代にかけてはすでに塚と呼ばれていた実態が浮き彫りになる。

古墳名一覧(享禄・天文の頃)

🪦一ノ峰(山上古図では「上ノ塚」と記される)

古老伝承によると、勾玉が出土したらしい。石室は海石、石棺らしきものも出土。

🪦二ノ峰

双鳳双鶯八稜鏡1面が出土。(現在までの研究では古墳時代のものと推定されるも、古墳出土品ではなく、社殿に奉祀された神鏡の可能性が高いとされてい‥申す。あっ

🪦三ノ峰

三ノ峰では1890年(明治二十三年)二面の古墳が発見された。

🦊二神二獣鏡(渡来品)1面、変形四獣鏡(国産品)1面が出土。

🦊変形四獣鏡(方製鏡)東アジアの銅鏡の主流。中国鏡を模造した鏡)

当時の玉垣より東へ約10米。京都国立博物館 出陳。

 

画像引用先:奈良国立博物館

 

l荒神ヶ峰:

瑠璃勾玉2、石製勾玉1、碧玉管玉6、水晶切子玉6出土(京都国立博物館 出陳)

墓室内部に水が貯まり、それが西側斜面の土を押出す状態で噴出し出土した。組合石棺らしきものも発見された。




鏡が古墳から出土した理由

三ノ峰から出土した鏡はいずれも祭具(呪具)とみられており、太古の昔、例えば天候不順などの天災が相つぎ、亀‥あいや、そっちではなく、祈祷(きとう)!!のようなものが繰り返し行われていたと推定されてい申す。まっ

古墳の形状

現在の稲荷山古墳は崩潰が著しく、往時の姿態をとどめていないとされるが、今日までの研究では「前方後円墳」だったと推定されており、山頂から約70mの範囲で築造されていたことが明らかにされた。

とりわけ、現在の当古墳は「稲荷・藤原古墳」の学術名で登録され、出土した遺物は近隣に位置する京都国立博物館にて出陳もしくは収蔵されてい申す。はっ(もぅ止まらん)

稲荷山古墳の石室

稲荷山古墳の石室には巨大な海石が用いられたことが明らかにされているが、これは下掲のような修羅(しゅら)という器材を用いて運んできたとする説がある。

また、太古の当地が湖(そのさらに前は海)だったとする異説もあるよぅだが、はてさて。

古墳の築造方法

稲荷山古墳が築造されたとされる古墳時代には「修羅(しゅら)」という運搬器具が多用されており、稲荷山も例外なく修羅を用いて築造されたとする見解がある。

修羅とは木枠を据えたソリのような用具であり、これにクソでけぇ石コロを乗せて麓まで運んできて、そこからは尾根づたいに人海戦術で稲荷山山中まで運搬したとする見方もできる。

⬆️国語の教科書を忘れて見せてもらぅハメになっちまったが、横のヤツが超嫌れぇな超・宿敵だった時の超〜複雑な辛れぇ心境ほど噂の‥「修羅」 心境も修羅場よ!

このような円墳を標高約200米の位置に築造するのであれば、相当な重労働が伴ぃ、且つ、数多の人員を要するのは明白。

おそらく当地を支配した大豪族の所業であると云わざるを得ないが、現在までの研究では、深草の開創者である大陸出身の秦氏が大陸の土木技術と経済力を駆使して築造したとする説が根強ぃ。

春日峠(経塚)から経筒が出土

1911年(明治四十四年)7月、偶然にも春日峠から鎌倉時代初期とみられる陶製の経筒が発見され、大きな話題となった。(現在、東京国立博物館所蔵)

経塚とは仏教の経典や宋経を経筒に納めて埋納しておくための目印のようなもの。

ただ、時代がくだるにつれ、塚前で念仏を唱えたり、祈願する人々が続出し、やがて神仏供養、極楽往生(来世利益)などの霊験ありと信仰されるようになった。

🦊稲荷山(春日峠)からの出土品一覧

法華経八巻

そのほか、100点以上の仏具・装身具類

経塚を建てた人物とは?

これまでの研究では、1182年(養和二年)、後法性寺殿と称した九条兼実が姉である皇嘉門院 聖子の菩提を弔うために経塚を当地に築いたと考えられてい‥‥‥申す。えぁ(もぅ病気 病みクマ❤️)




深草遺跡

現在までの研究では秦氏が深草に定住する以前、紀氏(きうじ)と賀茂氏(かもし/現・上下賀茂社創建)が当地の豪族として支配していたとする見解がある。

現在、NTT深草別館前(伏見区深草西浦町五丁目)には「深草遺跡」と示される石標が建つ。

石碑の概要
位置座標🦊北緯34度57分34.3秒
🦊東経135度46分02.9秒
※世界測地系
石碑建立年1970年(昭和45年)3月
石碑建立者京都市
石碑寸法高117×幅18×奥行18cm
当地調査年2002年2月13日

⬆️貧乏ゆすりを長年、隙あらば高速でしすぎて胃下垂と診断された愚かさ&此(コレ)どなぃしまんねん状態ほど噂の‥‥「深草遺跡の看板」

🪦看板の内容
此付近、深草弥生遺跡(このふきん ふかくさやよいいせき)

この付近は弥生式文化時代の重要な
遺物が出土した所である。
戦前、陸軍練兵場であったこの付近は戦後になって
数度の学術調査が実施され、弥生式中期
時代(今から約二千年前)の人々の生活、特に農業の様子を示す遺物が多数発見された。
中でも注目されるのは木製品で、鍬(くわ)・鋤(好き❤️)の農具、小型碗などの日用品が発見され、いずれも高い技術で加工されてい申す。きゃ(もぅ癖)
石斧などの石器、壺や甕(かめ)などの土器(ドキっ❤️)も多数発見され、ドキは形式的には滋賀県南部と共通する特徴を有する。
また、焼けた米までもが発見された。この付近に住んだ弥生時代の人々は高い技術を持って稲作の農耕生活を営んでいたことが確認される。
原始時代の生活を探るための重要な遺跡である。

京都市

深草遺跡の築造年代

当遺跡は弥生中期初頭~中葉にかけての集落跡であることが明らかにされており、東山連峰南端に近い稲荷山西方に広がる扇状地と、それに続く沖積平野(ちゅうせきへいや/河川による堆積作用によって形成される地形)にまたがるようにして広がっていたとする。

西側には鴨川、南には(旧)巨椋池とに挟まれた平地であり、標高は約20m。

歴史

戦後、複数回、発掘調査が実施され、多くの遺物が出土した。

住居跡遺構は未詳とされるも、大規模な初期型農耕集落と推定されてい‥‥申す。ちゅぇ

深草弥生遺跡の場所


秦氏がなぜ稲荷山に神を奉祀したのかを考える前に秦氏が歩んできた歴史や京都の歴史に焦点をあててみる。

京都の歴史(要約)

太古

太古の京都盆地は湖の底だったと云われる。

たとえば清水寺の鎮守社・地主神社境内には、今日、「恋占いの石」の名前で広く知られる太古の石コロろころドコいったが、2つ置かれているが、伝承によると現在の地主神社の周りは海もしくは湖だったという説があり、恋占いの石とは太古の遺物だと伝わる。

同様に稲荷山古墳の石室からも海石が検出されているように、太古の京都は海底or湖底だったことを示唆する。

旧石器時代(今から2~3万年前)

地殻変動により京都盆地が形成されると、人々が定住するようになり、京洛を取り囲む東西北に連なる連峰をかけめぐり、人々は狩りや山の幸(産物)などを採って生活していたと考えられてい‥‥ます。ふぅ〜(耐)

実際に数多の縄文時代と思われる遺物が出土している事実を以って、それを傍証する。

縄文時代(約12000年~2300年前)

現在の北白川周辺からは数多の土器類のほか、竪穴住居跡が検出されており、縄文時代には現在の北白川あたりに一大集落が形成されていた可能性が指摘されてい申す。あひょ

弥生時代(約2300年~1700年前)

弥生時代(約2300年〜1700年前)になると我が国に稲作が伝わり、京都盆地でも水田を造成して米作りが行われるになった。

人口も増えはじめ、今日の洛南地域、すなわちこの伏見あたりの低地にも集落が目立ち始めると、人々は農事の効率化を求めて青銅や鉄を採掘し、刃物などの道具を作り始めた。

この事実は伏見から弥生時代の遺跡が検出されたことによって明らかにされたもの。




渡来系民族・秦氏の台頭

秦氏は朝鮮から日本へ来朝した後、大陸で培った養蚕や紡績技術などを伝えたと云われるが、とりわけ治水技術や機械製造技術には秀逸したものがあり、やがて朝廷(大王or天皇)より帰化が認められると、倭人(日本人)として姓(かばね)や社会的地位、そして生活の拠点となる土地を与えられた。

特に洛西・太秦(うずまさ)に秦氏の族長と目される秦河勝(はたのかわかつ)が、自族の氏寺として609年に広隆寺を創建したエピソードは有名❤️

ただ、おそらくこの当時から京都盆地は水害に悩まされていたと考えられるが、秦氏は大陸で培った治水技術のほか、灌漑(かんがい/水を効率よく田に引き入れる)にも技術力を発揮した。

実際に桂川では古代(秦氏?)に施工されたとみられる大規模な堰(せき)の痕跡も検出されたらしいが、流量が著しく変化する桂川の川容に対処しきれず、度々、堰が決壊したとみられ、天皇も長岡京をわずか10年で捨て去る結末を迎えた。

そして、賀茂氏や秦氏の熱心な導きもあってか、794年(延暦十三年)に開拓された京都盆地へ平安遷都が実現すると、以降、明治初頭までの永年、京都は我が国の首都となった。

秦氏も711年(和銅四年)2月初午の日に自族の氏神となる伏見稲荷大社を創建したが、これは秦氏が信奉した神奈備(かんなび)の影響で単に自領の山神を奉祀したとも考えられる。

ただ、伏見に田地が広がっていた実態や、当地が秦氏の支配下にあったことが事実なのであれば、稲作を開始した直後からキツネやネズミ(もしくは祖先となる小動物)などの害獣被害に悩まされることもあり、その対策として五穀豊穣の神として山神(稲荷山の神)に縋った(すがった/祀り)とする見方もでき〜る。

そしてさらに時代がくだると、稲荷詣が貴族の間で流行し、当初は稲藁をさずかって持ち帰っていたものが、やがて信仰の拡大とともに稲藁が枯渇しはじめ、その代用として霊峰・稲荷山の杉の枝を手折って持ち帰るようになったと推察。(しるしの杉の製頒初午大祭の起源)

このような風習は熊野社の御神木である梛(なぎ)の葉を懐中へ納める風儀に倣ったとする見解もある。

鴨川の流路

往古の鴨川は現在の東福寺or十条付近(東山区福稲のあたり)で90度に屈折し、南の遊水池となる巨椋池(昭和初めに枯渇)に注いでいたらしい。

つまりのところ、伏見稲荷大社以南は低地が広がる、割合、肥沃な土地だった様子がうかがえる。

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