築城、地震、落城と再建‥‥「伏見城」の壮絶な歴史を紐解く!

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現在の伏見桃山城の天守閣・小天守は、かつての伏見城を模した「模擬天守」です。

本来の「伏見城」は、豊臣秀吉や徳川家康によって築かれ、数々の歴史の分岐点の舞台となりました。

「伏見城」は、どのような歴史を歩み、そして失われてしまったのでしょうか?

3つの「伏見城」

「伏見城」とは、豊臣秀吉と徳川家康が伏見区桃山の丘陵に築いた、3つの城の総称です。

それら3つの城は、それぞれ建てられた場所の地名「指月(しげつ)」や「木幡山(こはたやま)」を冠し、以下のように3つの期間にも分けられる。

 指月伏見城(指月城):豊臣秀吉

これまでの城史では地震で倒壊するまでの第一期とする。

 木幡山伏見城:豊臣秀吉

地震後の復旧から関ヶ原前哨戦にて落城するまでが第二期。

 木幡山伏見城:徳川家康

落城後、徳川家康による再建から元和年間の廃城(1619年〜)までを第三期とする。

そして、現在の伏見城は「伏見桃山城」と称する。

以上、これまではこれら三期に分けて考えられていたが、今日における研究では地震後の再建にてわずか一年足らずの工事期間にて天守や城内殿舎までもを完成させたことが疑問視されていた。

そこで文禄三年の築城令は城郭の規模として丘陵全体に及んだものと推考されており、その場合、豊臣・徳川時代の2つに分けて、その間の地震を挟んで豊臣時代を2期に分ける考え方になる。




伏見城の歴史

橘俊綱邸宅跡

伏見城が建造される以前の当地は藤原氏や伏見宮家が支配した荘園(庄園)だったと伝わる。

中でも「伏見長者」とも呼ばれた藤原頼道の三男・橘俊綱のクソでけぇ居館があった話は有名。

俊綱は親父(藤原頼道)が宇治に荘厳華麗な平等院を建立したことに倣ぃ、後に「伏見寺」と呼ばれる寺院を邸内を建立した。

別称で「即成院」とも呼ばれたが、伏見城築城の折、深草大亀谷東寺町に移建され、明治初めの廃仏毀釈によって泉涌寺(せんにゅうじ)へ移された。(現・天理教 京都山城分教会)

木幡の関

伏見城築城の折、東北の方角から城が見下ろされることが無きよぅにと、関へ通じる峠道が廃され、現在の黒染から八科峠を越える道(府道 六地蔵 下 鳥羽線)が敷設された。

また木幡の関や旧道は伏見城下に取り込まれ、後に武家屋敷が立ち並んだ。

伏見殿跡

伏見城が建造された土地は、伏見庄の領主たる伏見宮家の庄園(荘園)でもあった。

御深草天皇は後に北朝となる持明院統(じみょういんとう)の祖であり、深草南部より伏見にかけての土地を領し、京師・東南部が北朝の地盤ともなった。

とりわけ、領主が庄園に居住したのは、我が国の歴史上、伏見庄のみと云われる。

室町中期に伏見宮貞成親王が著した看聞御記(かんもんぎょき)によると、伏見庄は「伏見九郷」とも呼ばれ、以下、六ヶ村に区画されていた。

  • 船津、三木、山、森、石井、野中

伏見城の前身は単に秀吉の隠居所(別荘)だった

伏見城は当初から城郭として建造されたわけではなく、当初は秀吉の隠居所として1592年(文禄元年)より指月山に造営計画がなされた。

1591年(天正19年)12月、太閤秀吉は関白職や、秀吉の政庁兼邸宅だった聚楽第も甥の秀次へ譲位・下賜し、自身は京都・宇治川を臨む「指月の岡」(現・伏見区桃山町泰長老)に、隠居処としての別荘を営んだ。

この別荘こそが伏見城の前身となる。

指月の地を選んだ理由は「指月」の名前からも察しがつくように、平安時代より寒月の名所として知られていた指月周辺を散策した後、秀吉本人が決めたらしい。

指月伏見城の築城

秀吉は別荘の完成前に伊達政宗との対面のほか、徳川家康や前田利家らを呼び寄せて茶会を催すなどしたが、1593年の末頃から総構えの近世城郭へと工事計画を変更し、突貫工事にてこれを完成させた。

豊臣秀吉肖像

伏見城築城(別荘の改造)に際しては、大阪城に次ぐ政治的・軍事的な拠点としての街づくりも計画され、1594年(文禄三年)頃より城周辺の土木営作、城下町の整備が本格的に実施された。

また、秀吉が淀殿に与えた淀古城(淀城)から天守や櫓(やぐら)が移建され、1595年(文禄四年)の秀次の切腹後は破却された聚楽第からも建物が移された。

こぅして、ここに初代(最初)の伏見城(指月伏見城)が世に姿を現すことになる。

別荘から城郭へと造り替えた理由

秀頼が生まれたから

諸説あるらしいが、1593年(文禄二年)に側室の淀殿(お茶々)との間に嫡子・拾(秀頼)が誕生したことが焦点となっている可能性は捨てきれない。

 

秀吉が抱いていた脅威

秀吉は加齢に起因した体調の変化などから、自身の死期を悟っていたはずであり、常に東の脅威と西の脅威に備える必要があった。

おそらく秀吉がこの当時もっとも警戒していたのは西の黒田、東の徳川であり、特に東の徳川への警戒を強める目的で「観月」「隠居」と称して伏見の高台(丘陵地)を選んだのではないかと。

徳川と一戦交えることになった際、この伏見城は東方面からの最大の防御壁になったであろぅに。(事実、大坂の陣が起こってい..申す。きゃ(恐怖だけに)

‥‥とまぁ、如何せん、あくまでも俗説の類いである事実は払拭しきれず、当該理由は現在に到っても未詳とされる。




伏見の地を選んだ理由

お茶のための最高級の水を求めた

伏見は古来、名水が湧出するスポットして知られており、お茶好きだった秀吉は茶を煎じる際の水質にもコダわった。

つまり、伏見の地を選んだ理由の一つとして、お茶の水を確保するためだったとも考えられる。

なお、同様の理由で酒が美味ぃというのも理由に挙げられるのではなかろぅか。

伏見は交通の要衝

現在の伏見桃山の高台を見ても分かるように観月には好立地ともいえるが、であればなぜ伏見でなければならなかったのか?

京都であれば他にも候補はあったハズ‥‥。

そこで秀吉が伏見を選んだ理由を考察してみると、たとえば琵琶湖から大坂・堺までを直線で結んだ場合、その途上には伏見が来る。

つまり、京洛北東の交通の要衝でもある旧東海道から鴨川や宇治川を経て淀川、そして大坂城へと到る水路(水運)を掌握することができた。

それと、この当時はまだ完全に整備が行き届いていなかったが、奈良時代に多用された木津川から伊賀、鈴鹿峠、伊勢亀山を抜けて東国へ到るルート(大和街道とも)にも着目し、睨みを効かせていたとみる。

つまり、東国からの主要ルートの間に伏見が位置し、交通の要衝でもありながら東国との有事の際にも対応できる、まさにココしかぬぅあぃ!!‥‥といぅ場所だった。

(なぜか家康も伊賀越えで同様のルートを通ったとみられる。秀吉の思惑を読み取っていたのか?)

それと大和(奈良)にはもっとも信頼を寄せる弟・秀長がいたが、伏見城築城の約1年前となる1591年(天正十九年)1月に死没し、南方の守りが薄くなったこともその要因に挙げられる‥‥の? なんや ”の?”て使者を介さずに連絡が出来た?!

地元史家・加藤次郎の伏見桃山に関する論考によると、伏見城天守と大坂城天守とは遠目が利く人物が遠望することで伝馬などの物理的な手段を介さずに通信(連絡)が可能だったとする。

実際にビルが林立しない頃を知る人の話では、稲荷山の四つ辻にある展望台から大坂天守が目視できたらしい。

だとすれば、大阪城と伏見城とが物理的な手段を介さずに連絡取り合えた、そのギリギリの距離を保てる場所だったのが、伏見桃山の丘陵だった‥‥などといぅ推論は成り立つが。はてさて
(望遠鏡は残念ながら、もう少し後の1608年にオランダで開発された模様💘)

とりわけ目視ができなくても、たとえば原始的に狼煙のようなものでも合図はできたのではなぃか?

慶長の大地震(慶長伏見地震)にて倒壊

後世、この城は「伏見指月城」と呼ばれるわけだが、突貫工事で建造されたのが仇となったのか、悲運にもこの初代伏見城(伏見指月城)は1596年(文禄五年)閏7月13日の子刻(午後11時~午前01時頃)に発生した大地震(のちに「慶長の大地震(慶長伏見地震)と呼ばれる)によって天守閣の上二層などが倒壊した。(すぐさま再建工事が命じられたらしい)

どぅやらこの頃、近畿地方では地震が頻発していたこともあり、皮肉にも閏7月の大地震を受けて10月には元号が「慶長」と改元される結果をももたらした。ガハっ

板坂 卜斎(いたざか ぼくさい)が著した「慶長年中卜斎記」には、地震でもろくも崩れ去った天守を「伏見天守も上の二重ゆりおとし(揺り落とし)」と記し、初期望楼型と呼ばれる構造上の弱点を顕にした。

なお、建築史家の内藤昌氏は、その後の徳川普請の天守になってから後は、飛躍的に耐震技術が向上したことを著書に記す。

【参考】慶長地震の規模

マグニチュード:7.0〜7.8

震度:7

被害状況:伏見城崩壊、液状化現象(城北堀、木津川 ※地盤が液体状になる現象)

ちなみに気象庁の公式見解では一般の石垣に被害が出始めるのは震度5からだとする。

指月伏見城の発掘調査

指月伏見城については、絵図などの資料がなく、正確な位置や姿形が謎に包まれていましたが、2015年(平成27年)に行われた伏見区桃山町のマンション造成地の発掘調査にて指月伏見城(指月城)のものと考えられる石垣、堀、金箔瓦などが出土した。

※一部は伏見城が倒壊した場所を埋め立てて建てた大名屋敷の跡とも言われる。

この発掘調査で発見された遺構は痕跡がほとんど残っておらず、「幻の城」とも称される指月伏見城

が、この地に実在したことを裏付けるものとして注目されてい申す。しゃ

キツネ狩の祟りで伏見城は崩壊した?

秀吉は稲荷の神への帰依を表し、生母(大政所)の病気平癒を祈願したが、1595年(文禄四年)には全国に狐狩りを行うように沙汰する。

幕末の館林藩士・岡谷繁実が1854年に著した「名将言行録」によると、備前中納言(宇喜多秀家)の内室(前田利家の四女or秀吉の養女・豪姫)が産後、急に病床に伏し、調べさせたところ物怪が憑き、野狐の仕業であることが分かった。

豪姫は生後まもない頃から秀吉が手塩にかけて育ててきた愛娘同然の姫だけに秀吉にとっては一大事だった。

そこで秀吉は石田三成と増田長盛らに命じて全国の諸大名に狐狩りを命じるとともに稲荷社に対しても次のような命を下した。

狐を境内から一掃せよ。無理ならば稲荷社を破却した上、毎年厳しく狐狩りを行わせ、ことごとく殺す。

だグァ!

そぅこうしているうちにケロッと内室の病気は寛解(かんかい)に到り、結局、狐狩りは行われなかった‥‥のだグぁ!

その天罰がくだったのか、伏見城が地震で崩壊するのは翌年のことだったのであ〜る。(前田利家が愛刀・大典太光世/おおでんたみつよ/を振りかざすと物怪が失せたという逸話もある ※大典太光世は天下五剣のうちの一振りとされる)




②秀吉の木幡山伏見城

 二代目伏見城の誕生

伏見指月城の再建計画は旧地ではなく、標高約110米の伏見山山上へと場所を移す形で計画され、1597年(慶長二年)5月には天守閣や諸殿舎が次々と完成し、10月には御舟入御殿や学問所、茶亭なども竣工した。

それだけにとどまらず、南側に位置する向島には出城までもが建造され、城下には大名たちが競って移り住み、屋敷を営んだ。(現在、同地の地名の由来にもなってい申す。きゃ

 1597年(慶長二年):木幡山伏見城が完成

秀吉は地震直後に小屋を建てて避難生活を送った「木幡山(こはたやま)」(現・伏見区桃山町明治天皇陵域内)にて、城の再建に着手する。

地震の被害にあった元祖・伏見城(指月伏見城)から再利用可能なものが多かったこともあり、工事はハイスピードで進み、閏7月の地震の後、10月には本丸が、翌年5月には天守閣や殿舎が完成し、秀吉・秀頼が入城しました。

現在、伏見桃山城運動公園の北側にある北堀公園はこの木幡山伏見城の巨大な外堀(幅150m、深さ15m)の遺構で、中段に園路、堀の底部分に広場や池などを整備しています。

伏見北堀公園

また、10月には茶亭学問所も造られ、その先には宇治川から舟を直接横付けできる舟入場が設けられました。

この茶亭学問所周辺の遺構は、桃山町丹後に、南北約300m、東西約90mという巨大な窪地として残されており、舟入場跡には、伏見城御船入址」として、案内板と1基の灯明が残されています。

伏見城御船入址

宇治川で守られた南側に対し、脆弱だった北側には、堀と防塁を設け、その堀は「濠川」として残っています。

秀吉による伏見城(木幡山伏見城)の築城により、伏見は城下町として栄えることとなりました。

 今も地名に残る城下町の名残

かつて、諸大名の屋敷が軒を連ねていた城下町・伏見には、現在も、大名の名前や地名、官職名などを取った地名が多く残っています。

その例をご紹介します。

桃山町丹下、桃山町正宗、桃山最上町、桃山長岡越中町、桃山町永井久太郎、
桃山町島津、桃山町三河、桃山町伊賀、桃山町金森出雲、
桃山福島太夫町、桃山毛利長門町、桃山町松平筑前 など

徳川氏時代の伏見城

1598年(慶長三年)に秀吉が当城で病没すると、その後は五大老の一人であった徳川家康の預かるところとなり、家康が入城した。

その後、1600年(慶長五年)8月1日、関ヶ原合戦の前哨戦となる東軍と西軍の攻防戦によって徳川方の将・鳥居元忠が守備する伏見城が大坂方(西軍)の攻撃を受け落城した。

この時、元忠は玉砕覚悟で少兵にて守備にあたったが、討死(自刃)。

戦後、伏見城には血に染まった畳や床が残されたが、畳は元忠の忠義に三嘆した家康が江戸城・伏見櫓の階上に登城した居並ぶ大名たちの頭上に武士の手本として安置、床板は近隣の養源院などへ移された。

なお、養源院を例に挙げると堂内にこの床板がハメ込まれ、これを「血天井」と称して現在、不定期で公開してい‥‥申す。きよっ

伏見城の瓦の原料

伏見城に用いられた瓦は伏見城築城の折、播州(播磨国/はりまのくに/兵庫県中南部)より秀吉自らが職人たちを招来し、現在の深草瓦町に定住させたと伝わる。(「瓦町」の名称の由来)

これは深草の南方(東方山麓)に位置する西飯食、ならびに谷口では往古より、良質の埴土が(はにつち/粘土質を多く含んだ土)採取できたことによる。


現今の姫路城にも同様の瓦が用いられてい‥る?

秀吉が職人たちを遠く離れた播州より伏見に招来した大きな理由は、現今の姫路城(世界遺産)大天守の瓦製造をも手掛けるような手練れの職人が数多に常在していたことによる。

これらの職人たちは現在も姫路市船津町を中心とした一帯に窯元(かまもと/職人の工房)を構え、俗称で「いぶし瓦(粘土瓦)」とも呼ばれる姫路城の瓦製造を担ぅ

姫路市船津町に窯元が多い理由とは?

船津町に窯元が多い理由は一つ。

当地域では往古より良質の粘土が採掘できることから、瓦造りが盛んだったことに拠る。

ちなみに地元では瓦職人とは呼ばず「瓦道具師」や、単に「道具師」と呼ぶ。

現在の伏見街道は秀吉が造ったもの

秀吉は伏見城建造の折、伏見の街の土地区画整理を行うと共に御所へ参内するための道路をも整備した。

この道路は伏見城から稲荷大社、方広寺(大仏)・豊国神社などの前を通り、果ては清水寺付近の五条通(国道1号線)までを直通した。

特に豊国神社境内には能舞台が常設され、その見物人や参拝客、はたまたその周辺には遊行する人々や都人の遊興地でもあり、雑踏を極めたと伝わる。

 1598年(慶長3年):秀吉没

2代目の伏見城(木幡山伏見城)完成後、秀吉は大阪城と伏見城を行き来していたらしいが、晩年は伏見城で過ごすことが多かったと伝わる。

そして、1598年(慶長3年)、幼い秀頼と五大老に後事を託し、伏見城にて没する。享年61歳。

秀吉の死後、遺言によって秀頼は大阪城へ移り、五大老の1人だった徳川家康が豊臣秀頼の大老(補佐役)として伏見城に入りましたが、間もなく大阪城へ移った。

豊臣氏と共に衰微した伏見街道

秀吉がこの世を去り、やがて徳川の夜が明けると伏見城解体ならびに、方広寺・豊国廟(豊国神社)への参拝客&遊興人が激減し、伏見街道は衰微する。

また、その時流という名の火に油を注ぐかのように、元和年間(1615年〜1624年)になると当代の京都所司代・板倉伊賀守勝重の政策によって京中の芝居・見世物の興行が四条河原のみに限定され、豊国神社や五条河原界隈の賑わいは急速に衰退するのだった。




③家康の木幡山伏見城

 1600年(慶長5年):伏見城の戦いにより落城

秀吉が建てた伏見城(木幡山伏見城)では、徳川氏の家臣・鳥居元忠が城代(じょうだい:城主の留守を守る役)の任に就いていましたが、1600年(慶長5年)8月、家康の出陣中に小早川秀秋・島津義弘連合軍に攻められました。

鳥居元忠肖像

伏見城は固く守られ、味方約2000人に対し4万人の兵力で攻められても容易には落ちませんでしたが、13日間の攻防で落城し、鳥居元忠は討ち取られ(自刃)、建物は焼かれました。

この戦は、翌月に始まる関ヶ原の戦いの前哨戦であり、「伏見城の戦い」と呼ばれています。

鳥居元忠の忠誠を伝える「血天井」

わずかな兵力で玉砕覚悟の籠城を決行、そして見事に散り果てた鳥居元忠の忠節は「三河武士の鑑(かがみ)」と称賛され、この時血に染まった畳は、家康が江戸城の伏見櫓(やぐら)の階上に置き、登城した大名たちに見せて元忠を威徳を偲ばせたという逸話が伝わっています。

江戸城伏見櫓(解体復元)

明治時代、江戸城が明け渡されると、畳は壬生藩(現・栃木県)の鳥居家に下げ渡され、壬生城内の元忠を祭神とする「精忠神社(せいちゅうじんじゃ)」の境内に「畳塚」を築いて埋納されました。

血天井

一方、血の付いた床板は、京都市の三十三間堂向かいに建つ養源院の天井になったとされ、「血天井」と呼ばれて、元忠の活躍とともに語り伝えられています。

⬆️パチンコ屋に6ヶ月毎日通ぅとタバコを吸いまくるオッさんの口吐き煙によってガン死にの土台が成立&汗までタバコ臭せぇ‥くなる噂ほど噂の‥‥「養源院山門」 ホンマかぃ

養源院前の案内板

※江戸城の伏見櫓は、1628年(寛永5年)の西の丸造営に際し、伏見城から移築したものと言われてますが、根拠となる記述などは見つかっていません。

1628年に移築となると、「家康が元忠の血に染まった畳を置いた」という話は年代との間に齟齬が生じる(家康は1616年元和2年に死去)。

※「血天井」の伝承が残る寺院は、京都市・宇治市内に複数存在します。




 1602年(慶長7年):徳川家康が再建

関ヶ原の戦いで勝利した家康は、1601年(慶長6年)に入城して伏見城の再建に着手しました。

築城の名人として知られる藤堂高虎が普請奉行(土木・建築工事担当)に起用され、1602年(慶長7年)中にはほぼ完成しました。

その翌年、家康は新しい伏見城(木幡山伏見城)で征夷大将軍に就任しました。

徳川家康肖像

家康は将軍在任中、江戸城と伏見城を行き来していたものの、伏見城にいる期間が長かったため、伏見城とその一帯は、近畿地方において徳川政権の拠点となりました。

家康以降、三代将軍家光までは、伏見城で将軍宣下式を行うことになります。

1605年(慶長10年)には、家康が伏見城で朝鮮使節との会見を行い、秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)で関係が悪化していた朝鮮と和睦しました。

また、この年には新しく御殿が建設されています。

同年4月には、二代将軍・徳川秀忠の将軍宣下が実施されました。

その後、大御所となった家康は、改築した静岡の駿府城に入り、伏見城には城代や大番(おおばん)などの留守役が置かれました。

 1615年(慶長20年):一国一城令~廃城

1614年(慶長19年)の大坂冬の陣、翌年の大坂夏の陣で豊臣氏が滅んだ後、江戸幕府は「一国一城令」を出しました。

これにより、京都(山城国)に二条城と伏見城の2つの城を持てなくなったため、1619年(元和5年)、伏見城の廃城が決まり、翌年には取り壊しが始まりました。

1623年(元和9年)には残った本丸部分に若干の修復をして三代将軍・徳川家光の将軍宣下が行われ、その後、伏見城は完全に廃城になりました。

伏見城の天守は二条城に移され、その他の建物も、京都の社寺の他、広島の福山城など、各地に移築されました。

現在、各地で「伏見城の遺構」とされているもののほとんどは、この家康の伏見城(木幡山伏見城)のものとされています。

廃城後、跡地周辺は開拓されて桃の木が植えられ、江戸時代中期には桃山という地名で呼ばれるようになりました。

織田信長と豊臣秀吉が政権を握っていた「桃山時代」の名称は、この地名に由来しています。

明治時代には丘陵の大半が皇室御料地となり、大正元年には、城跡に明治天皇陵(伏見桃山陵)が造営されました。

明治天皇陵

天皇陵に入ることはできませんが、周辺には伏見城に用いられていた矢穴(石の採掘や加工の際に入れる印)が入った石などが残されています。

矢穴石(例)
木幡山伏見城の遺構(航空写真)

木幡山伏見城跡には明治天皇陵が、東隣にはその后・昭憲皇太后陵があります。

伏見街道の復興

1620年(元和六年)、板倉伊賀守勝重は嫡男・重宗へ京都所司代職を承継し、重宗の御代になると伏見と大阪天満とを連絡する水路が整備されるようになり、三十石船(現在も伏見観光協会が就航させる)と称する客船が日夜就航するようになる。

こぅして京師(京の都)と天下の台所・大坂との利便性は飛躍的に向上し、九州、中四国の旅客たちが大坂から舟で水路を遡上し、伏見へも来遊するようになる。

伏見街道が再び殷賑(いんしん/賑々しさ)極まると、伏見稲荷大社へも足を運ぶ人々が増加し、大社前の中之町にあった「一文字屋」、「二文字屋」、「三文字屋」などの料亭兼、茶屋が休憩所として人気を集めた。

伏見城の特徴

工期

同時期の城郭普請を例にとると、安土城の工期は3年。大坂城は石山本願寺城の廃材を利用して天守台から天守完成まで約1年半。

そして初代伏見城は2年と少々‥‥ということだが、慶長の地震後の再建ではまったくの新造でありながらも、わずか一年足らずで殿舎まで完成させていることから、工期に関しては疑問視され続けてきた歴史がある。(文禄初年〜文禄三年の普請では丘陵全域が対象だった説が浮上 ※旧廃材を再利用したために早まった。)

石垣の積み方

伏見城をイメージする時、石垣は御香宮、石は淀城などと云われることがある。

伏見城普請の特徴としては、大坂城と同様、際立った巨石が用いられていないことが挙げられる。

とりわけ北堀の発掘調査の結果、当代の軍学書とはかけ離れた粗悪な石垣の積み方をした箇所も見つかった。

寛永年間成立の当代記には、「伏見城殿守石かけ(天守石垣)は、一つ残らず崩れ去る」と記すなど、突貫工事で造成した地盤と石垣、さらに技術的な面からの欠陥を指摘する。

復刻版伏見城「伏見桃山城」の歴史

現在の伏見城は、「伏見桃山城」と呼ばれている模擬天守(復元天守)を中心とした建築群で、これまでで述べた3つの伏見城とは別物となる。

どのように建造され、今に引き継がれているのでしょうか。

 1964年(昭和39年):キャッスルランドオープン

伏見城跡地には、1964年(昭和39年)、遊園地「伏見桃山城キャッスルランド」が建設されました。

伏見桃山城キャッスルランド(当時)

運営は近鉄グループの株式会社桃山城、広さは国会議事堂の敷地面積とほぼ同じ約10万㎡で、現在まで残る「伏見桃山城」の模擬天守・小天守・模擬櫓門(大手門:正門)も、この時に建造されました。

五重六階の大天守と三重四階の小天守は、岡山県の杉原美術館が所蔵する『洛中洛外図』に描かれた徳川家康の伏見城(木幡山伏見城)を参考に設計された鉄筋コンクリート造の建物で、遊園地のシンボルとなりました。

当時は、模擬天守の中に入り、最上階の展望室から伏見の街並みを眺めることもできました。

アトラクションはジェットコースター、ゴーカート、お化け屋敷、観覧車など約20種類あり、夏場にはプールも人気でした。




 2003年(平成15年):キャッスルランド閉園

伏見桃山城キャッスルランドはお城のある遊園地として市民に親しまれ、年間入場者は最大約100万人(1978年(昭和53年))となりましたが、その後はユニバーサルスタジオジャパン(USJ)の開園、レジャーの多様化、少子化などの波の中で減少し、2003年(平成15年)、惜しまれながらも閉園しました。

年間100万人というのは東京・練馬区の遊園地「としまえん」(総面積約22㎡)の来場者数(2017年約93万人)や、千葉県の東京ドイツ村(面積約27万㎡)の来場者数(同約103万人)に近く、当時の人気ぶりが伺えます。

ちなみに、2003年当時のUSJの来場者数は約988万人で、最高は2016年の1460万人でした。
※2017年以降は非公開

さて、肝心の模擬天守は、キャッスルランド閉園後に取り壊しになる予定でしたが、市民の声により保存されることとなり、無償で京都市に贈与されました。

キャッスルランドの跡地も京都市により整備され、2007年(平成19年)に野球場や多目的グラウンドを備えた「伏見桃山城運動公園」がオープンしています。

ただし、耐震性や老朽化の問題で天守内部は開放されておらず、地震対策やバリアフリー化などの工事に費用がかかることなどから、キャッスルランド閉園から15年以上が経過しても、いまだに活用策は決まっていません。

なお、2018年の台風の被害により、屋根瓦やしゃちほこの一部が落下する被害が出ています。

 【番外編】「大阪城風」の期間限定改修

2007年(2019年)、映画『茶々 天涯の貴妃』で大阪城として撮影するため、伏見桃山城の模擬天守は期間限定で改修されました。

約1億円かけて、しゃちほこや高欄などを塗り替えたり、新たに装飾を施したりして、絢爛豪華な大阪城風の城に変わり、話題となりました。

この装飾はその後、元に戻されています。

伏見桃山城でロケが行われた主な映画やドラマについては、当サイト伏見城(伏見桃山城)の拝観情報(料金・時間)・アクセス(行き方)・駐車場と「季節のイベント・楽しみ方」でご紹介しています!

必見!京都市内に残る伏見城の遺構ベスト3!

上述の通り、伏見城(秀吉・家康の木幡山伏見城)の遺構は、各地に移築され、大切に守り継がれています。

中でも、京都市内にあり、特に必見のものを3つ、ご紹介します。

 御香宮神社(ごこうのみやじんじゃ)

主祭神は神宮皇后で、他に仲哀天皇、応神天皇を祀っています。

1594年(文禄3年)、豊臣秀吉は伏見城の築城に際し、鬼門の守護神とするため、この御香宮神社を現在地から大亀谷(現・伏見区深草大亀谷)に移しました。

1605年(慶長10年)には、元の地に戻されており、現存する本殿はこの年に造営されたものです。

表門(重要文化財)は1622年(元和8年)に寄進されたもので、秀吉時代の伏見城の大手門と伝えられています。

境内には300個近い石垣の残石が保管されている他、社務所には「金箔瓦」と呼ばれる伏見城の瓦が保存・展示されています。

金箔瓦とは

瓦の上に漆を塗り、その上に金箔を貼った瓦。
豊臣秀吉の伏見城(指月/木幡山伏見城)の殿舎や城下町の大名屋敷に敷かれていたと考えられています。
金箔瓦が本格的に採用されたのは、織田信長の安土城が最初と言われ、その後は一族の許可された建物にのみ、用いられました。
派手好きとして知られる豊臣秀吉もこの金箔瓦を好み、大阪城や伏見城、聚楽第などに採用しました。
また、豊臣家一門や重臣たちの間もに普及し、会津若松城や上田城など地方の城にも広がっています。
なお、金箔瓦は城の屋根全体に用いられたわけではなく、軒先の軒丸瓦や軒平瓦などの一部に、装飾的に使われていました。

京都市埋蔵文化財研究所蔵の金箔瓦

御香宮神社のINFO

アクセス

👯‍♀️京阪電車「伏見桃山」駅から徒歩約5分

👯‍♀️近鉄電車「桃山御陵前」駅から徒歩約5分

👯‍♀️市バス「御香宮前」バス停から徒歩約1分




 高台寺(こうだいじ)

高台寺は、1605年(慶長10年)、豊臣秀吉の正室・北政所(きたのまんどころ/高台院、ねね)が秀吉の菩提を伴うために徳川家康の援助を受けて創建した寺院です。

伏見城の一部を移築して造営され、火災の被害で焼失したものもありますが、表門や茶室「傘亭」「時雨亭」(いずれも重要文化財)が現存しています。

時雨亭(手前)と傘亭(奥)

また、高台寺の向かい側にある塔頭・圓徳院の北庭(国の名勝)は、伏見城の北政所化粧御殿の前庭を移築したものです。

圓徳院の北庭

高台寺の住所・お問い合わせ先・アクセス

アクセス

👯‍♀️京阪電車「祇園四条」駅から徒歩約15分

👯‍♀️阪急電車「河原町」駅から徒歩約20分

👯‍♀️市バス「東山安井」バス停から徒歩約7分

 豊国神社(とよくにじんじゃ)

豊臣秀吉を祀る神社で、「ホウコクさん」と呼ばれています。

かつての壮麗な社殿は、大坂夏の陣の後、徳川家康によって取り壊され、現在の社殿は1880年(明治13年)に再建されたものですが、桃山期の伏見城の遺構と伝わる唐門(国宝)が残されています。

豊国神社のINFO

アクセス
  • 京阪電車「七条」駅から徒歩約10分
  • 市バス「博物館三十三間堂前」バス停から徒歩約5分

 都久夫須麻神社(つくぶすまじんじゃ)

画像引用先:https://ja.wikipedia.org/

  • 所在地:滋賀県長浜市早崎町1665(旧 東浅井郡早崎村)

1602年(慶長七年)、豊臣秀頼が木幡山伏見城にあった「日暮御殿(ひぐらしごてん/勅使殿)」の一部を竹生島弁財天社への寄進として、都久夫須麻神社・本殿(国宝)を移建したと伝わる。

具体的には、都久夫須麻神社の本殿は身舎(もや/建物中心部分)と周囲の庇(ひさし)部分とが造営された年代が異なり、つまりは異なる年代の建造物を合わせて一棟の建造物とした意匠がみられる。

実は都久夫須麻神社は1567年(永禄十年)にも再建されているのだが、現在見られる本殿の姿は、1602年に豊臣秀頼が片桐且元を作事奉行に補任し、日暮御殿の一部を身舎部分として移建した後の姿だと云われる。

公式サイト:http://www.shiga-jinjacho.jp/……

 藤森神社

⬆️バブルガムの最初が美味すぎて、思わず飲み込んでまぅ確率の高さほど噂の‥‥‥「藤森社境内の伏見城石垣」

”賛同”するほどに”山道”ではなく、境内入口”参道”両脇に置かれる石垣は解体された伏見城石垣の一部と伝わる。見よ!羽生バリの美しき3連続トゥループ完成!

現在も伏見城普請の際に大名たち自らが普請したことを判別するための”しるし”の陰刻が残る。

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