【寺田屋(京都伏見)は宿泊も見学できる!】見どころと滞在時間・歴史(寺田屋事件の真実と坂本竜馬)・宿泊料金を‥‥知っておきたぃって?

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伏見区の代表的な史跡(史蹟)の1つとして、「寺田屋」が挙げられます。

「寺田屋」と耳すれば真っ先に思い浮かぶのが、ご存知!「坂本龍馬」ではないでしょうか?

しかし寺田屋では、坂本龍馬の事件以外にも、過去に以下↓のような2つの事件が起きています。

このページでは寺田屋旅館の見どころをご紹介すると共に、併せて寺田屋事件の真相やその背景となる歴史について講釈たれています。

薩摩藩・島津久光と「寺田屋騒動」

薩摩藩・島津久光島津久光

「寺田屋騒動」とは、1862年(文久2年)に、薩摩藩の尊皇派志士たちの行き過ぎた行動を諌めるために、同郷の薩摩藩主・島津忠義の父親である島津久光との間に起こった事件のことです。

なお、この時すでに薩摩藩主・島津忠義は他界しており、その父親である島津久光が薩摩藩の事実上の実権を掌握していました。

当時、寺田屋は「船宿」と言う看板の他に、裏では「薩摩藩の定宿」として機能しており、密かに倒幕の熱い談義が繰り広げられていました。

当時の談義の内容は日本全国の尊皇派を発起させるための「関白・九条尚忠」と「京都所司代・酒井忠義」の殺害(暗殺)に関しての談義です。

しかし、行き過ぎた熱い談義が時期尚早な行動を生むことを恐れ、尊皇派志士を捕縛・暗殺するために、島津久光が同郷の薩摩の藩兵を中央(京都)へ送り出しました。

送り出された藩兵たちは、寺田屋にて尊皇派志士たちを見つけ、説得に応じない志士たちとの間に、抜刀にての激しい斬り合いが行われます。

この騒動で数人は斬殺され、その他多くの薩摩藩の志士たちは捕縛されて本国・薩摩へ送り返されました。




坂本龍馬と「寺田屋事件(寺田屋遭難事件)」

寺田屋遭難事件 お龍お龍(りょう)

寺田屋事件とは、別称・寺田屋遭難事件とも呼称し、当時、坂本龍馬の動きに目を付けていた「京都所司代・伏見奉行の林忠交(肥後守)」が、坂本龍馬ほか、薩摩藩士を捕縛・暗殺するために寺田屋で待ち伏せした際に起こった事件です。

坂本龍馬と言えば、後世に至っても超が付くほどの有名な人物であり、倒幕・尊皇派の原動力となり主翼を担った人物です。

1866年(慶応2年)1月23日の午前2時頃、当時32歳であった土佐藩の下級武士・坂本龍馬は、新政府樹立と倒幕のための準備を整えるために、薩摩藩や長州藩の志士(藩士)たちと、ここ寺田屋で密会を行っていました。

いっぽう、事前に龍馬の動きを察知していた幕府も、深夜2時頃に「林肥後守忠交」を筆頭とした幕吏約30人で寺田屋とその周囲を包囲します。

この時、龍馬の妻であった「楢崎 龍(ならさき りょう)」通称「お龍」が1階で「素っ裸」で風呂に入っており、多数の物々しい足音に気づいたお龍は「素っ裸」のまま慌てて風呂から飛び出て階段を駆け上がり「素っ裸」で2階にいた龍馬に危機を知らせたと云われています。

事の次第を知った龍馬は、急ぎ「素っ裸のお龍」を抱きかかえて寺田屋の2階裏側から隣の家屋の屋根に飛び移り逃走をはかります。

寺田屋 竜馬像

しかし、寺田屋の周囲はすでに幕吏に取り囲まれており、戦闘になるのは必至でした。

龍馬は「素っ裸のお龍」を逃がし、自らは「拳銃(ピストル)」で果敢に応戦しますが、如何せん多勢に無勢、逃走をはかりながらの応戦劇となります。

しかし幸運なことに、寺田屋は表向きは船宿でしたので「三十石船(さんじっこくぶね)」と言う船を所有しており、薩摩藩の手引きもあって「半・素っ裸のお龍」とも無事に合流し、何とか船で逃げおおせることに成功します。

ちなみに、龍馬はこの戦闘で左手の指数本が不随になるほどの深手を負っています。

この事件の翌年、今度は舞台を変えて「京都河原町の近江屋」で密談が行われています。

この時も、やはり幕府に動きが漏れており、今度は談義の場にまで踏み入られ急襲されることになります。

しかし2回目の逃亡劇はなく、坂本龍馬はここで人生最後の時を迎えることになります。

後の世では、この事件を「近江屋事件」と呼んでいます。時に坂本龍馬、33歳のことです。




京都寺田屋旅館の見どころと観光

「刀跡」と「弾痕」

寺田屋の2階には、騒動が起こった当日の「刀傷」や龍馬が放ったとされるピストルの弾のメリ込んだ「弾痕」が残されています。

刀傷は柱に残っており、弾痕も室内に数箇所あります。

「刀跡」

寺田屋・刀痕

弾痕

寺田屋・弾痕

寺田屋の庭園

寺田屋の庭園寺田屋には庭園があります。

この庭園には、かつて「本物の寺田屋」が建っていました。

実は、現在の寺田屋は「本物の寺田屋」を模して1950年(昭和30年)代に造営されたものです。

本物の寺田屋は、1868年(慶応4年)に勃発した「鳥羽伏見の戦い」で焼失しています。

鳥羽伏見の戦いとは「京都市南区鳥羽・京都市伏見区」の一帯で繰り広げられた、徳川幕府軍と新政府軍(薩摩藩・長州藩・土佐藩連合軍)との戦いのことです。

この戦いは、激しい戦闘となり、京都に大火をもたらしました。

鳥羽伏見の戦いは、「戊辰戦争」の緒戦となる戦いであり、戦いの舞台は序々に東北地方へ移り「戊辰戦争」へと発展していきます。

なお、現在の寺田屋の庭園には、昔、寺田屋が建っていたことを証明する「史蹟・寺田屋」と書かれた「石碑」が建てられています。

史蹟・寺田屋




竜馬愛用の「梅の間」

「梅の間」は、旧・寺田屋にて坂本龍馬が愛用していたと云われる「梅の間」を再現して造営された部屋です。

現在の寺田屋の梅の間には、たくさんの龍馬ゆかりの品々が展示されています。

「素っ裸のお龍」が事件当日使用していた「湯船(風呂)」

京都・伏見 寺田屋 お龍 お風呂

現在の寺田屋には、事件当日、お龍が「素っ裸」で実際に入浴していたとされるお風呂も造られています。

「素っ裸のお龍」は幕吏たちの、ものものしい足音に気づくと、「素っ裸のまま」慌てて2階にいる龍馬に事の次第を伝えに行きます。

このお風呂の形状を見れば察しがつきますが、タルのような形状をしていますので、慌てて出るのは一苦労です。

「素っ裸のまま」この湯船を倒して出たのかもしれませんね。ウフ

「素っ裸のお龍」が事件当日「素っ裸」で駆け上がった階段

お龍がかけあがった階段

風呂から飛び出た「素っ裸のお龍」が2階へ駆け上がったとされる階段を模して建てられています。

当時も本当にあったのかは謎ですが、階段の両はしには明治時代の貴族宅を彷彿させる「高級な手スリ」が付いています。

寺田屋の滞在時間(見学所要時間)

寺田屋・中01

寺田屋は外から正面に見ると、そんなに大きくないように感じます。

しかし、中へ入ると意外に奥行が結構あることに気づきます。

つまり、見学所要時間もそれなりに必要になります。

  • ゆっくり見学:約35分
  • ややゆっくり見学:約25分
  • 平均的な見学時間:20分
  • やや早めに見学:15分
  • 早く見学:10分

これらの時間はあくまでも目安です。

宿といっても所詮は家屋ですので大きさは限られていますが、展示物をじっくりと拝観される場合は35分以上かかることもあります。

龍馬ファンは1時間は確保ですね。




京都・伏見「寺田屋」の「宿泊プラン・宿泊料金」

寺田屋・中

京都(伏見)寺田屋は見学だけではなく宿泊することもできます。

宿泊料金

  • 素泊り:6500円
  • 1泊朝食付き:別途500円
チェックイン・チェックアウト時間

  • チェックイン:18時(門限あり20時まで)
  • チェックアウト:翌朝9時まで
宿泊可能な部屋数

  • 2階の「梅の間」以外の5部屋のみ
寺田屋の宿泊予約方法

  • 団体のみ電話にて要予約

 電話番号:075-622-0252
(電話予約受付時間10時から20時まで)

寺田屋の宿泊プラン(じゃらん)はコチラ

寺田屋の見学料金やアクセス方法

【補足】京都市・伏見区の歴史と名前の由来

京都市の中でも、伏見稲荷大社の建立されている「伏見区」は、古来、「不死身(ふじみ)」と「伏見(ふしみ)」の語呂合わせから縁起が良いとされ、多くの権力者が一目置いた地域でもあります。

したがって、権力者にまつわる史蹟も数多く残されています。

京都伏見の主たる権力者として列挙されるのが藤原氏と豊臣秀吉です。

平安期や鎌倉期では藤原氏の領地として繁栄しました。

安土桃山期に差し掛かり、豊臣秀吉の伏見城の造営に伴って城下町として伏見区全域で大規模な開発が行われています。

この時の開発が現在の伏見区の数ある史蹟の礎にもなっています。

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