碑文
『ぬは玉のくらきやみ路にまよふなりわれにかさなむ三つのともし火』
此大御歌(おおみうた/天皇が詠んだ歌)はむかし延元元年(1336年)6月、足利尊氏いつわり降りて車駕(しゃが/天子が行幸の際に乗るくるま)を京師(京の都)に還さむことを請奉り
しかば遂に勅許ありて環幸ましまししをかしこくも花山院の舊宮(旧宮)に押篭(おしこむ/幽閉)奉れり 天皇あざむかれぬ知しめして其年の十二月ひそかにその宮を出させ給ひて大和の方へ落ちさせ給ふに
其夜いと暗くして咫尺(わずかな距離)も分かぬばかりなるをからうして神社の御前に至り給ひこの大神を伏拝み(遠くから拝む/遥拝のこと)給ひて
よせませ給ひしにたふときかもくすしきかも忽(こつ/たちまち)に山上より赤雲現はれて明らかに道を照らせり
此光によりて大和の内山といふ處(ところ/場所)に着かせ給しよし吉野拾遣(よしのしゅうい/君主を助けてその過失をいさめ補う中国の故事)に見えたり
此御事世に知れる人(後醍醐天皇のこと)まれなるを憂れたみて(心を痛めて)こたび大阪南久宝寺町二町目にすめる土井柾三おもいおこして此石ふみを建奉るになむ
明治二十五年十二月
稲荷神社宮司 近藤芳介 謹誠
同社 禰宜 羽倉芳豊 謹書
同社 主典 桑田孝恒 賛助
簡単に説明(解釈)
後醍醐天皇は足利直義(あしかが ただよし/鎌倉幕府御家人)によって花山院(旧宮殿)に幽閉されたが、吉野へ逃れるために苦難の逃避行に到り、その道中、稲荷の社(伏見稲荷大社)へ立ち寄った。
そして当時、稲荷山にあった本殿に到るまでの真っ暗くら寿司ほど真っ暗な夜道を難渋しながらも歩み、稲荷の神へ吉野までの無事の到着を祈願した。また、即興で歌詠も行った。
『むば玉のくらき闇路にまよふなり われにかさなん 3つのともしび』
ちなみにこの歌は当社の”おみくじ”「七番(凶後吉)」にも記される。
後醍醐帝が歌詠を終えた瞬間、山上より忽然と赤雲がたちこめ、大和へ到るまでの夜道を照らしはじめると、天皇は無事に吉野へ辿り着けた‥‥という内容にな〜る。
稲荷社を取り囲む後醍醐派と足利派
六波羅探題を攻め落とした足利尊氏は稲荷社の社領を保証することで稲荷社が有した武力や経済力を吸収し、はたまた稲荷社を自らの反対派を抑制するための布石とした。
この当時、尊氏への抵抗勢力の地盤の一つが深草南部から伏見の地にあったことから、尊氏は政略として稲荷社を懐柔したことになる。
しクぁしながら、思惑とは裏腹に稲荷社は後醍醐派へと傾倒し、結果、尊氏家臣の小早川氏平が稲荷山城を攻撃するといぅ悲劇の結末を迎えたのだった。
なお、少し話は逸れるが、この小早川氏は備後国抗庄(広島県 久井町 字)の代官職を務めた家柄であり、その家臣に後に稲荷社神主(宮司)となる羽倉氏がい‥申す。あひょ
羽倉氏は稲荷社創祀に関わる重要人物である古代豪族の荷田氏を冒称(ぼうしょう/勝手に他の姓や名称をなのる)することで稲荷社の武威・経済力を掌握し、やがて中央政界へ進出して管領家・細川氏と入魂(じっこん/親しい)の間柄になっていく。
ちなみに石碑手前の看板は、石碑の文字が読みづらいことを懸念した土井柾三氏の後胤となる土井哲雄氏が2007年(平成十九年)7月に建献したもの。
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