京都・伏見稲荷大社「白狐社」【重要文化財】

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京都・伏見稲荷大社「白狐社」【重要文化財】

創建年

  • 平安時代前期
再建年

  • 1624年〜1644年(寛永年間/江戸時代)
  • 1676年(延宝4年/江戸時代)※屋根新造
  • 1694年(元禄7年/江戸時代)※境内大造営・大改築
建築造り

  • 切妻造
  • 妻入
  • ※一間社春日造
屋根の造り

  • 檜皮葺
重要文化財指定年月日

  • 2014年(平成26年)1月27日
御祭神

  • 命婦専女神
    (稲荷神の眷族である白狐のこと)
祭事日

  • 1月4日10時30分(参拝可能)
社格

  • 伏見稲荷大社・末社

伏見稲荷大社・白狐社の読み方

白狐社は「びゃっこしゃ・しろぎつねしゃ・しらぎつねしゃ」と読みます。




白狐社の別名

創建当初は「奥之命婦」や「命婦社」と呼ばれていたようです。

白狐社の御祭神・命婦専女神

命婦専女神とは「命婦神」と呼ばれたキツネの神様のことです。

すなわち稲荷大神の神使、いわゆる眷属(けんぞく)になります。

人間界の習わしに例えると官位が五位下より上の女官のことを「命婦(みょうぶ)」と言います。

ちなみに「専女(とうめ)」もキツネの神様の呼び方の1つです。

少し話は変わりますが、平安時代にはキツネ信仰というものがあり、神宮(伊勢神宮)内でも、キツネ信仰があったほど広まっていたようです。

神宮のキツネ信仰では、外宮の豊受大御神の神使がキツネとされ「専女」と呼んで祀られています。

なお、伏見稲荷大社境内で稲荷大神の神使である白狐を主祭神として祀る神社は当神社だけになります。

ちなみに伏見稲荷大社では白狐の「白」は「目には見えない色」という意味合いがあるようです。

これは稲荷大神である神使の狐の神秘性を表現しているとのことです。

白狐社の歴史・由緒

この白狐社は創建当初は現在の玉山稲荷社の付近に建っていたらしく、当初は「阿古町」という狐を単独でお祀りした「下社」格の末社・「阿古町」という名前の社だった模様💘

ただ、1589年(天正十七年)に描かれた社頭図には「奥之命婦(奥命婦)」と記されるも、それが1694年(元禄七年)の大改修では現在地へ移建され、以後は現在の「白狐社」へと改称される。

江戸幕府に関する資料のうち「京都御役所向大概覚書」によれば1694年にこの白狐社のみならず、本殿・内拝殿の向拝取り付けや楼門の移築など大規模な工事が行われており、1589年(安土桃山時代)以来となる大改修工事が実施された模様💘

しかし現在見ることのできる白狐社とは、上述の末社・「阿古町」が前身とも云われ、稲荷神社では唯一の「白狐の神霊」をお祀りした社でもあります。

船岡山の老狐

京都洛北にある船岡山には齢100歳を超えるい年老いた夫婦の狐が棲んでいた。

雄ギツネは白狐、雌ギツネの方は鹿の首に狐の身体を具有した異形の風貌をしてい‥申した。コンっ(狐だけに)

この夫婦の老狐には子供(子狐)が5匹いたが、弘仁年間(810年~824年)のある日、盛行する稲荷山詣の聞きつけ、居てもたってもいられず、ついに船岡山を下りて稲荷山へ向けて旅立った。

やがて稲荷神の祠前まで来た老狐一向は、霊智を以って世の鎮守となるべく、稲荷の神の眷属になりたいと願出た。

稲荷の神は老狐の願いを聞き入れ、雄ギツネには「小芊or小薄(おすすき)」、雌ギツネには「阿古町or阿小町」という名前をそれぞれ授け、雄ギツネは「上社(山頂)」、雌ギツネは「下社(山下)」にて我に奉仕せよと告げた。

上社とはつまり、現在の白狐社、下社とは命婦社を指すものと解される。(稲荷山の命婦社の場所は未詳。飛地の御旅所内には上・下の命婦社が奉祀される

1474年(文明六年)の東寺執行日記には「眷属命婦に二種有り。
”一”は本地(本地垂迹のこと)を文殊(一名、阿小町)、
”二”は一名、歩き命婦と称し、本地を聖天or普賢と記す。これは稲荷山が信仰の聖地であった背景を如実に物語る。

とりわけ旧記ではこの故事を「命婦事」と記し、明応初年から八年までの明応の境内大改修における遷宮記録では、雄ギツネを「男命婦」、雌ギツネを「婦命婦」と記すなど、室町時代には「眷属」ではなく、「命婦」と呼ばれていた様子もうかがえる。

上中下に白狐が奉祀されたする説もある

稲荷の神は秦氏によって稲荷山の一の峰(上社)、ニノ峰(中社)、三ノ峰(下社)にそれぞれ配祀されたが、その神使(眷属)とされた白狐も稲荷神と合祀する形式で、それぞれ上中下の社殿に配祀された。

つまり、3柱の白狐が稲荷神と共に祀られたことになるが、その折、それぞれに神名を与えられた。

🦊上社:阿古町(あこまち※中右記には”阿古万千”と記される)

🦊中社:黒烏(くろお)

🦊下社:小薄(おすすき)

また、神族(眷属)として命婦(みょうぶ)の官職名(当初は五位以上)まで授与されたとある。(以下参照💘)

命婦の名前の由来にもなった秘話「阿古町と進命婦」

平安時代、関白・藤原頼通の妾妻(めかけ)であった「藤原祇子(ふじわらのぎし)」と言う人物がいました。

この人物は別名「進命婦」と呼ばれ、もとは頼通に仕える女官でしたが、女官として頼通に仕えるうちに男女の関係になります。

ある時、進命婦が自身の今後に不安を抱きながら、伏見稲荷大社へ社参して参籠したところ、「阿古町(あこまち)」と言うキツネが突如、進命婦の目の前に現れて神託を授けたそうです。

その後、進命婦は頼通の思われ人となり、北政所として人生を謳歌できたことから、その礼に「命婦」の名前を「阿古町」へ贈った(譲った)そうです。

こぅして「キツネの阿古町」は「命婦専女神」として、さらに信仰が寄せられ今日に到ります。

ちなみに「命婦専女神」とは、「年老いた狐」という意味合いもあるようです。

白狐社の社殿の特徴と建築様式

神社によってはお稲荷さんを祀る社の背面や側面の下部に狐穴が空けられているケースがある。

たとえば、この白狐社は稲荷の神の神使たる白狐を奉祀することから、社殿側面下部に狐穴が設けられてい‥‥申す。コンっ(狐だけに)

また、社殿自体は室町後期の様式を諸処に残し、まさに「稲荷造り」と呼べるに相応しい社殿であることから2014年(平成二十六年)1月27日に重要文化財の指定を受けるに到る。

春日造の社殿

「春日造り」という社殿の造りで有名なお社に、奈良県の東大寺の近くにある「春日大社」があります。

春日大社は「春日造り」の名前の由来にもなっています。

伏見稲荷大社境内でも、この春日造りを目にかけることができますが、その一つが、この「白狐社」です。

白狐社の建築は、伏見稲荷大社の境内の社殿では珍しく「一間社春日造」が用いられる。

一間社春日造とは春日造を基本として、柱と柱の間が一間だけ(一つだけ)ある社殿のことをいぅ

春日造の特徴

春日造の特徴としては、入母屋造を基本とし、前面に「向拝(庇/ひさし)」を据えた特徴的な屋根をもつ。

この向拝は、出雲大社(島根県)の本殿などに見られるような緩やかな湾曲をもつのが特徴。




【補足】稲荷信仰の原点

そもそも稲荷信仰とは、「田の神信仰(農耕神)」と「キツネ」を結び付けたことが原点にあります。

現在の稲荷信仰の原点ともなる信仰の在り方は、およそ鎌倉時代に成立したと云われております。

米は毎年、春に種撒きが行われ、秋には稔り(みのり)を告げ、人々に幸福と笑顔をもたらします。

昔は、秋の稔りは田の神への信仰心の現れとされていました。

稲が幸福と笑顔をもたらすのは、何も人だけではなく、動物にも恵みをもたらします。

その動物の一種として「ネズミ」や「スズメ(雀)」がいます。

ネズミは毎年、春頃に種(苗)を食べ、秋になると稲を食べに田んぼに現れますが、同様に「キツネ」も田んぼに現れます。

キツネが田んぼに現れる理由は、その苗や稲を食べるネズミやスズメを捕食するためであり、この時期に山から降りてくるからです。

古来では、秋の稔りは田の神への信仰心の現れとされていました。

米を主食とし、豊作が半ば神仏頼みだった時代、往時の人々は本当に心からキツネに感謝していたと思われます。

稲荷山から麓の田畑を荒らすネズミやスズメを捕まえるために、山から降りてくるキツネの存在は、どれほど頼もしく見えたことでしょうか。

まさに、山の神の神使と呼ばれても何ら不思議ではなぅい

稲荷神は別名で「御饌津神」とも呼ばれる

話は少し逸れるが、稲荷神(宇迦之御魂神)は別称で「御饌津神(みけつかみ)」とも呼ばれる。

また、漢字を変えて「三狐神(みけつかみ)」とも記される。

ケツとはキツネの古称

「ケツ」とは、「おケツ(尻)」のことではなく「キツネの古い呼び名」です。

つまり、三狐神の呼称の由来とは、キツネが関与していることは言うまでもありません。

【逸話】キツネ狩の祟りで伏見城は崩壊した?

秀吉は稲荷の神への帰依を表し、生母(大政所)の病気平癒を祈願したが、1595年(文禄四年)には全国に狐狩りを行うように沙汰する。

幕末の館林藩士・岡谷繁実が1854年に著した「名将言行録」によると、備前中納言(宇喜多秀家)の内室(前田利家の四女or秀吉の養女・豪姫)が産後、急に病床に伏し、調べさせたところ物怪が憑き、野狐の仕業であることが分かった。

豪姫は生後まもない頃から秀吉が手塩にかけて育ててきた愛娘同然の姫だけに秀吉にとっては一大事だった。

そこで秀吉は全国の諸大名に狐狩りを命じるとともに稲荷社に対しても次のような命を下した。

狐を境内から一掃せよ。無理ならば稲荷社を破却した上、毎年厳しく狐狩りを行わせ、ことごとく殺す。

だグァ!

そぅこうしているうちにケロッと内室の病気は寛解(かんかい)に到り、結局、狐狩りは行われなかった‥‥のだグぁ!

その天罰がくだったのか、伏見城が地震で崩壊するのは翌年のことだったのであ〜る。(前田利家が愛刀・大典太光世/おおでんたみつよ/を振りかざすと物怪が失せたという逸話もある ※大典太光世は天下五剣のうちの一振りとされる)

伏見稲荷大社・白狐社の場所(地図)

伏見稲荷大社・本殿の後方に位置します。付近に奥宮と玉山稲荷社があります。

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