京都・伏見稲荷大社「楼門」【重要文化財】

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京都・伏見稲荷大社「楼門」【重要文化財】

京都・伏見稲荷大社・楼門【重要文化財】

創建年

  • 不明
再建年

  • 1589年(天正17年/安土桃山時代)
重要文化財指定年月日

  • 2014年1月27日
建築様式(造り)

  • 入母屋造
  • 楼門
屋根の造り

  • 檜皮葺
大きさ

  • 三間一戸(横幅:約6m)

京都・伏見稲荷大社・楼門の歴史・由来

京都・伏見稲荷大社の楼門の創建年は不明とされております。

これには理由があり、室町期に京都を中心地として勃発した応仁の乱で、伏見稲荷大社にまで兵火が及び、境内の社殿や門はほとんど、燃え尽きてしまいました。

それはこの楼門も、例外ではありませんでした。

この応仁の乱によって、境内の建造物はもとより、創建年の証拠となるような文献なども焼失したと云われております。

なお、楼門が再建されたのが1589年であり、応仁の乱が起こったのが「1467年(応仁元年)」であることから、約120年間ほど楼門がなかったことになります。

再建された理由は、豊臣秀吉のお母さんである「大政所」の病気の治癒を祈願して、秀吉自身が寄進したと云われております。

この再建年と根拠となったのは、1973年(昭和48年)に施工された楼門の修繕の際、「天正17年」と記載がある墨書が発見されたそうです。


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京都・伏見稲荷大社の楼門の人形「随身像」

伏見稲荷大社の楼門の左右には「随身像」と呼称される人間同寸の人形が1体ずつ安置されています。

随身とは「ずいしん・ずいじん」と読みます。

楼門の随身像の格好(衣装)は、平安時代の貴族のような和装装束を羽織っており、手には弓を持ち背中には矢筒を背負っています。

これには理由があり、平安時代に「皇族」や「皇族を補佐する官僚」のボディーガード(警備兵)であり、つまりは伏見稲荷大社を守護しているからです。

楼門の入口正面から見て、右側の随身像を「右大臣」と呼称し、楼門の入口正面から見て、左側の随身像を「左大臣」と呼称するようです。

口を開けた「阿(あ)形」の随心像
                                              ↑左大臣「随身像」

口を閉じた「吽(うん)形」の随心像
                                              ↑右大臣「随身像」

そして、それぞれの随身像の大きな違いとは以下↓の通りです。

京都・伏見稲荷大社の左右の「随身像の違い」

  • 「右大臣」随身像は、口を閉じている。(吽形)
  • 「左大臣」随身像は、口を開けている。(阿形)
  • 「右大臣」の方が年若い(青年)
  • 「左大臣」の方がオッちゃん
  • 「左大臣」の方がオッちゃんな分、長生きしているので位が高い..と思われる。

尚、随神像は概ね、伏見稲荷大社と同様に左大臣がオっちゃんで、右大臣が青年です。

容姿もほぼ統一され、弓矢を持っています。

様々な神社へ参拝された際は、門を見てください。

ただし、小規模な神社であれば社殿(拝殿)の中の左右に随神像が安置されていることが多いです。

京都・伏見稲荷大社・楼門の建築様式(造り)

かつて楼門は2階建てであることから「二重門」と呼ばれる門でした。

2種類あった従来の二重門

  • 1階と2階に屋根がそれぞれあり、合計で2つ屋根がある門
  • 2階にのみに屋根がある門

これらを区別するために「楼門」と「二重門」と呼び方を2つ作りました。

  • 楼門:2階にのみ屋根がある門
  • 二重門:1階と2階にそれぞれ屋根を持つ門

「楼門」の豆知識

楼門の「楼」とは「」や楼閣の「」を意味しており、すなわち重層の建造物のことです。

他に「物見やぐら」などの意味合いもあります。

伏見稲荷大社・楼門の場所

伏見稲荷大社の楼門はJR稲荷駅前の鳥居をくぐり、さらに奥にもう1つある鳥居をくぐった先に位置します。

伏見稲荷大社の本殿および後方の稲荷山を守護する立派な門です。

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