京都・伏見稲荷大社の歴史を年表付きで簡単に説明!「由来や造った理由・造った人は誰?」
京都・伏見稲荷大社の年表と歴史を簡単に説明!
伊侶巨秦公(いろこのはたのきみ)が、勅命を受けて、稲荷山にある三つの山の頂に稲荷大神を祀ったことで、これが伏見稲荷大社の起源となった。
社殿が建設される。
827年(天長4年) 稲荷大神に初めて従五位下の神階が下賜された。
この頃から朝廷の崇敬が増す。延喜式の制では稲荷神三座(下・中・上三社の神)名神・大社に列する。
藤原時平の寄進により社殿が造営される。
名神大社(国家鎮護の社)叙せられる。
従一位の社格(神階の最高位)が授与される。
正一位の社格(神階の最高位)が授与される。
都の巽(京都の東南の方角)を鎮守する神社として定められる。
※二十二社の上七社に列される。(「上七社」とは、社の格式の順番のこと。1.上七社 2.中七社 3.下八社)
二十二社とは、国家の重大事が起こった時、朝廷から特別に奉幣を受けた22の神社のことを指す。
後三条天皇が初の行幸される。以降、鎌倉時代まで天皇の行幸が慣例になる。この頃、神社でありながら山城・美作・備後・加賀・越前・美濃に荘園を持つ。さらに周辺にも多くの神田を持つ。
社領加賀国針道荘が安堵される。
後醍醐天皇、京都御所から吉野へ身を移す時に当社へ参拝。当社の”おみくじ”「七番(凶後吉)」にも記される通り、『むば玉のくらき闇路にまよふなり われにかさなん 3つのともしび』との句を詠む。
伏見城城代・三淵藤英、当社へ横暴をはたらく。室町幕府へ糾弾の意を上申す。
後花園天皇の勅命により、室町幕府6代将軍足利義教が稲荷山山頂の稲荷大神の祠を山麓に移す。
「応仁の乱」が勃発。
当時の神主(宮司)「荷田延幹」が東軍に見方し東軍の武将「骨皮 道賢(ほねかわ どうけん)」が稲荷山を陣地とすることを認める。結果、山上・山下(麓)の社殿の大半が倒壊・焼亡す。応仁の乱後、もと稲荷山に鎮座していた上社・中社・下社の3社と、田中大神・四大神の2社が現在のように合祀され5神が相殿の形式になる。
現在の本殿が復興する。
太閤秀吉、当社へ信仰心を露わにし社領として106石と社殿修理費用を寄進する。さらに「朱印領(特別に認められた寺社の所有地)」として永久安堵を約束す。朱印地に関しては以降、江戸期になっても徳川政権にも引き継がれる。この様相は明治初頭まで踏襲される。
伏見稲荷大社境内に存在した「地蔵院」の僧「覚圓」が「伏見稲荷本願所」を立ち上げる。
4月21日、天阿上人(日雄)が伏見稲荷本願所の第3代目住職に就任。天阿上人、伏見稲荷本願所から→「別当寺・愛染寺(愛染院・持福院)」へと名称を改める。天阿上人が住職に就任したことで稲荷信仰が日本全国に伝播する。ただ、この当時の稲荷信仰は俗に忌み嫌われる「キツネ憑き祓い」の要素が濃かった。
明治政府により「神仏分離令」が発令され「廃仏棄釈(はいぶつきしゃく)」の動きが生じる。結果、伏見稲荷大社を管理していた別当寺の愛染寺(あいぜんじ)が廃寺になる。このとき社内にあった仏殿、仏像の一部が、現在の泉涌寺・別院「雲龍院」に移管される。以降、稲荷信仰は今日に見られる「神道形式の稲荷信仰」へと変わっていく。
※廃仏棄釈・・仏教・寺院・仏像・経巻を破棄・廃棄して、僧侶や尼僧など出家した人や寺院が受けていた特権を廃止すること。
また、1867年(慶応3年)〜1889年(明治22年)の一般的に明治維新とされる期間中に「上知令(あげちれい)」が発布される。この令により稲荷山の山上・麓周辺など約26万坪あった社領が、2万坪を残してすべて明治政府に没収される。
※上知令・・江戸時代に特権を得て公認されていた寺社の土地を没収する法令。
官幣大社(天皇直々の奉納品を受けるほどの大きな神社)に列される。
明治政府と交渉を重ねて旧社領の一部が返還される。
昭和4年3月28日に施行された「国宝保存法」により、当社、本殿が国宝指定を受ける。なお、現今に至っては昭和25年5月30日に施行された「文化財保護法」により、重要文化財指定へ変更される。
「宗教法人・伏見稲荷大社」に改称。なお、今日に見られる伏見稲荷大社は伊勢神宮を中心とした神社庁の組織には入っておらず、独自の組織を持つ単立社である。
内拝殿が造営される。向拝(こうはい)唐破風(からはふ)が現在のように正面に据えられる。さらに本殿が明応期造営当時の姿に復原される。
明治35年に引き続き、旧社領返還について政府と折衝する。結果、旧社領26万坪すべてを回復す。
上述、明応年間に造営された御本殿(復原)が造営500年を迎え、「造営500年記念大祭」斎行される。
伏見稲荷大社、当地に御遷座1300年記念大祭が斎行される。
京都・伏見稲荷大社ができた理由
「山城国風土記逸文」の記述に見られる創建理由
「山城国風土記 逸文・伊奈利の社条(いつぶん・いなりのしゃじょう)」という古書物には、以下のような伏見稲荷大社創建説が記載されています。
稲や粟などの穀物を収穫しそれを売買することで財を成した、京都市深草に居処する長者であり、はたまた中国・秦の始皇帝の子孫とされる「秦氏の末裔・秦伊呂具(はたのいろぐ)」という人物がいました。
秦氏は大陸の進んだ文化や技術を用いて、日本においても大出世を果たした氏族です。
例をあげれば聖徳太子の参謀を務めた秦河勝(はたのかわかつ)などの人物の活躍が有名であり、伊呂具はその子孫とされています。
なお、この秦伊呂具という人物の出生については諸説あるようで、稲荷大社に伝わる『稲荷社神主家大西(秦)氏系図(いなりしゃかんぬしけおおにし(はた)しけいず)』によれば、賀茂建角身命(かものたけつぬみのみこと)の子孫の第24世「賀茂県主(鴨県主)久治良(かものあがたぬしくじら)の末子」との記述が見られます。
ある時、秦伊呂具が矢を射る的を探していたところ、餅を空へ投げて的とすることを思いつき、その餅を弓矢で射ようとしました。
そしていざ餅を投げて見事、餅を射止めるわけですが・・、なんと!突如、餅が白鳥に変化して山の向こうへ羽ばたいて飛んで行きます。
その後、その白鳥は小山に降り立ちますが、なんとぉぅっ!!不思議なことに白鳥が降り立った場所には稲が生えるのです。
後、この白鳥と稲に縁起を感じた伊呂具は、この場所に祠(ほこら)を建てて祀ることになります。
この祠こそが現在の伏見稲荷大社の前身であり、小山が現在の稲荷山だと云われています。
秦氏は大陸から渡来したのち、関西圏(主に京都・太秦)を根城にして歴代の朝廷に取り入り、官位を与えられ権勢を誇った一族です。のちに太秦に秦氏族の氏寺として「広隆寺(京都市右京区太秦蜂岡町)」を建立し、氏神社として「松尾大社(京都市西京区嵐山宮町)」を創建しています。
秦氏の族長は「秦河勝(はたのかわかつ)」とされますが、京都地域を統治した長に「秦忌寸都理(はたのいみきとり)」と人物が存在しており、この人物こそが松尾大社を創建したとされています。この秦忌寸都理の弟が上述の「秦伊呂具」になります。
稲荷神が最初に降臨したのは稲荷山ではない?!
高野山大学図書館が所蔵する持明院寄託本「稲荷記」には次のような記述がみれらます。
『稲荷大明神が最初に出現した場所は「紀州田辺の王子」であり、このとき弘法大師・空海とはじめて対面している』
この事実を「正」とするのであれば最初に稲荷大明神が降臨した地は、「紀州田辺の王子」ということになります。さらに稲荷大明神が地上に降臨して、はじめて対面したが弘法大師・空海ということになります。
紀州田辺の王子の場所(地図)
伝承にある紀州田辺王子という場所が、現在地に当てハメた場合、ドコになるのかは定かではありません。しかし驚いたことになんとぉぅ!この伝承が伝わる寺院が紀州田辺市に存在し、その寺院の名前を「高野山真言宗・高山寺」と言います。
そしてこの高山寺の山門にはなんと!以下のような文字が刻まれた石碑が立てられています。
『弘法大師 稲荷明神 値遇之霊蹟』
意味はこうです。
『弘法大師・空海と稲荷明神が最初に巡りあって縁を結んだのが当地であり、その石碑はその証を示したものである。』
さらに驚くのはこの高山寺が建つ土地の名前です。高山寺の住所は次のとおりです。
『和歌山県田辺市稲成町392』
『”稲成”=”稲が成る”』という漢字が住所地になっています。これが転じると「稲成→稲成り→稲荷」というようにもみられます。
これらの事柄から推察できることは、稲荷明神の降臨は脚色されたフィクションであったとしても、この場所が稲荷大明神と弘法大師・空海に関連性のある重要な場所であるということは理解できるというものです。ウフ
稲荷大社の名前の由来と「”稲荷”の意味とは?」
「稲荷神社」の「稲荷」の名前の由来とは、上述したように「稲が生えた」という言葉の発音から、まずは「稲生(いなせ)」へと変化しますが、なんと!この稲はその後、瞬く間に周囲一帯に稲が生えたそうです。
つまり、稲が荷となるくらいの重量(=豊作)になったと解釈され、最終的に「稲荷(いなり)」と呼ばれるようになったと云われています。
しかし、この由来には諸説あり、一説では「飯(米)の種」から「稲を成らせる」の語源から「飯成り」⇒「稲なり」⇒「稲荷」となったとも考えられています。
他には後述の「翁(老人)」が大師の居処する東寺を訪問した際、背中に「稲を荷なって(背負っていた)」ことに由来して「稲荷」という名前ができたとも云われます。
ちなみに、「山城国風土記(やましろこくふうどき)」の記述では「稲荷」とは書かれておらず、「伊奈利(いなり)」と書かれています。
ところで・・「山城国風土記」って何?
山城国風土記とは、山城(現在の京都府)の風土記ということになります。
風土記とは、奈良時代に用いられた一種の報告書のことで、主に天皇に献上するための地域の調査書になります。
詳しくは、奈良時代初期である713年(和銅6年)5月に、当時の天皇である「元明天皇」が、諸国の風土記の編纂(へんさん=編集)を命じました。
これにより「平安京遷都」以前の山城国の「文化」や「風土」、「地理状況」などが明らかにされ、これらの情報が隈なく記録された貴重な地誌となります。
京都 伏見稲荷大社を「造った人は誰?」
実は伏見稲荷大社を造った人物(創建した人物)に関しては諸説あり、次のような説が挙げられています。
秦氏が創建したとされる説
上述したように711年(和銅4年/奈良時代)2月の「初牛(はつうま)の日」に、「伊侶巨秦公(いろこのはたのきみ)=秦伊呂具」が帝の勅命により、稲荷山にある3つの山の頂に稲荷大神をお祀りしたことが起こりとされている伝承です。
淳和天皇が命じて創建したとされるされる説
歴史上、はじめて伏見稲荷大社の記述が見られるのが、平安中期に編纂された「類聚国史(るいじゅこくし)」という古書物であることから、一説では827年(天長4年/平安時代)に創建されたとされる説もあります。
類聚国史には以下のような記述が見られます。
「827年、淳和天皇(じゅんなてんのう)が病のため床に伏せる。病に陥ったのは東寺の五重塔を建てるために稲荷山の木々を伐採したからである」
そこで天皇は自らの病気平癒を願い、稲荷山の神へ木々を伐採した罪を認め、「従五位」の社格を与えて稲荷山に祠(ほこら)を築いたとされる説もあります。
弘法大師・空海が創建したとされる説
伏見稲荷大社近くに位置し、弘法大師空海が真言密教の道場に据えた寺院「京都・東寺」に伝わる古書物「稲荷大明神流記(いなりだいみょうじんるき)」によれば、次のような記述が見られます。
大師は中国・唐での修行中、「とある仙人」と会い、次に再び会う約束をして中国を後にします。その後、823年(弘仁14年/平安時代)に嵯峨天皇より東寺を賜り、真言密教の道場に定め、境内の再建を開始します。
このとき再建に使用する木材は現在の稲荷山から採ることに定めますが、その矢先に中国唐で出会った仙人が東寺の南門に突如、現れ大師はこれを快く出迎えます。大師は仙人を手厚くもてなすために「柴守長者の屋敷」のある「八条二階堂(現在の御旅所がある場所)」へ案内し、手厚くもてなします。(”柴守長者の屋敷”に関しては後述)
こののち大師は稲荷山へ入ることになりますが、このとき祠(ほこら)を築いて7日間の祈祷を稲荷山にて行っています。
大師が祠を築いて7日間も祈祷を行った理由は、大師はすでに上記の仙人が「稲荷大神」であることを察知しており、その稲荷大神を招いてお祀りしたからです。これが今日に見る伏見稲荷大社の前身であり起源とされる説です。
ただ、伏見稲荷大社では2011年(平成23年)に創建1300年記念祭が執り行われていますので、このことを加味すれば創建年は「2011-1300=711年」となり、すなわち711年創建説が採用されていることになります。
すなわち、伏見稲荷大社の社伝においては、伏見稲荷大社を創建した人物は「秦伊呂具=伊侶巨秦公」ということになります。
大師の母親を祀ったとされる説
実は、空海と稲荷大社とのつながりは他にもあり、なんとぉぅっ!空海の母親が荷田氏の血族であった事実はあまり知られていません。
荷田氏とは、稲荷大社の神官(神主)の一族で、稲荷大社を創建した秦氏の末裔とも云われます。
こうなれば新たな確証性の高い伏見稲荷大社創建説&由緒が浮上し、その説というのが創建後、大師の母親が死去するのですが、このとき母親と稲荷神(ダキニ天)と習合させて自らの宗派「真言宗」の守護神と定めたのかも知れません。
そして以降、母親の子孫である荷田氏(秦氏)が代々、伏見稲荷大社の神主を務め、守っていくことになるというストーリーです。
ところで・・「柴守長者」とはいったい誰??
「柴守長者(しばもりちょうじゃ)」とは、早い話が「老翁」すなわち「稲荷翁=稲荷大神」のことです。
少し冒頭でもお話ししたように実は大師は東寺を再建する前に、然る不思議な老人(上述の”仙人”のこと。/つまり後の稲荷大神)と4回出会っているのです。
1回目
初めて(1回目)老翁に出会ったのが弘法大師・空海が中国・唐で修行中のときです。このとき老人は「いずれまたお目にかかる日が来るじゃろぅ・・ふぉっふぉっふぉっ..フぉーーー!!!」などと告げて去るのです。
2回目
2回目は日本に帰った弘法大師・空海が九州筑紫で修行をしていたときのことです。このときも老翁は「我は仏法を守護する者」「京都に居処する”柴守長者”と申す」と告げ、「いずれまた会うときが来るじゃろぅ・・ふぉっふぉっ..ゴホっゴホっ ..のっ喉が。(・・”フぉーーー!!!”はヤメておくか。。)」・・などと告げて去っていきます。
3回目
3回目は816年(弘仁7年/平安時代)のこと、今度は紀州田辺で大師が修行をしていると再び老翁が現れて「我は仏法の隆盛に尽力する者」と告げ、去っていきます。
4回目
そして4回目は823年(弘仁14年/平安時代)、空海が東寺を再建するために稲荷山の木をまさに今切り出そうとしていた矢先に、東寺の南門から老翁が現れます。空海は老翁が来ることを悟っていたかのように「コチラにひとときの住まいを用意しています」と告げたその場所こそが、なんとぉぅっ!「2回目に会った”柴守長者の屋敷”」だったというワケです。
すなわち老翁は空海が稲荷山の木をいずれ伐採することを悟っており、さらに空海は4回目を迎えるまでには相手が誰なのかを知っていたということです。
ちなみに、このような大師と老翁の話は多くの文献に見られます。たとえば1446年(文安3年/室町時代)に編纂された「塵添壒嚢鈔(じんてんあいのうしょう)」の中の「東寺ノ事」の項にも上記のような内容が見られます。
ただ、この老翁に話は脚色された可能性が高いにしても、このような伝記が多数、現存しているという時点で、やはり弘法大師・空海が伏見稲荷大社の創建に深く関与していたのは間違いないと言えるでしょう。ウっハ
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