稲荷祭の日程(期間)&開始時間
神幸祭
- 日程(期間):例年4月20日に近接する前後の日曜日
- 神事の開始時間:午後11時(本殿&御旅所にて斎行)
- 神輿渡御:午後02時に御本社を発輿
区内巡幸
- 日程(期間):例年4月30日の前後日(おおむね日曜日)
- 開始時間:近年は13時(要確認)
御旅所発輿
- 日程(期間):5月03日
- 開始時間:午後02時
還幸祭
- 日程(期間):5月03日
- 神事の開始時間:午後04時(本殿にて斎行)
後宮祭(あとみやさい)
- 日程(期間):5月04日
- 神事の開始時間:午後10時(本殿にて斎行)
稲荷大神の御霊が奉安された神輿は4月下旬の神幸祭から5月3日までの14日間、御旅所に駐輿す〜る。
言い換えると、この期間中は御旅所に稲荷大神が移御されているので、厳密には稲荷大社本社(本殿)に稲荷大神は居ない(留守)という解釈にな〜る。
2025年の稲荷祭の日程(期間)&開始時間
神幸祭
4月20日に近接する前後の日曜日
※カレンダー上からの計算では2025年4月20日(日)
区内巡行(氏子祭)
未詳(情報公開され次第更新予定💘)
※例年、稲荷祭期間中となる4月30日の前後日(おおむね日曜日)なので、2025年4月29日(日曜日)を素敵に想定♡
還幸祭
2025年5月03日(土)
後宮祭
2025年5月04日(日)
過去の開催実績
🦊2024年度
- 神幸祭:2024年4月21日(日)
- 還幸祭:2024年5月03日(金)
- 後宮祭:2024年5月04日(土)
🦊2023年度
- 神幸祭:2023年4月23日(日)
- 還幸祭:2023年5月03日(水)
- 後宮祭:2023年5月04日(木)
過去3年間はコロナ感染対策の観点から「居祭」とて斎行、神輿巡行などは中止とされた。(2023年度より素敵に再開された💘)
稲荷祭とは?
稲荷祭とは平安時代から継続される伏見稲荷大社の数ある年中行事の中でも最大かつ最重要な神事であり、京都屈指の祭典の一つとされる。
この祭典では稲荷大神が年に一度、稲荷大社の氏子地域(産土地域)を巡幸し、氏子(住民)たちに御神徳(諸災除けや多幸など)を頒つ。
稲荷祭は大きく二つの祭典から成る
かつての稲荷祭とは還幸祭を指すものであったらしいが、今日の稲荷祭は以下のような2つの祭礼に大別され〜る。
- 当年4月下旬に斎行される「神幸祭(しんこうさい)」
- 翌月5月に斎行される「還幸祭(かんこうさい)」
これらの祭礼ではいずれも神輿渡御が実施され、古より「うまうまと神幸(おいで)、うかうかと還幸(おかえり)」などと歌詠された。
それゆえ、地元では古くから「神幸祭は”おいで”」「還幸祭は”おかえり”」などと呼ばれる。
稲荷祭の見どころ(目玉行事)
神幸祭(しんこうさい)
4月20日から最寄りの日曜日に本殿ならびに御旅所にて斎行される平安時代から継続される大祭となる。
神幸祭の渡御ルート(過去一例)
本殿にて稲荷の神の神霊である”神璽(しんじ)”を神輿へお乗せした後、大社を発御し、京都駅近くの御旅所(おたびしょ)を目指す。
大社から御旅所までは荷台の低い専用トラックに神輿ごと乗せて向かい、御旅所に入った神輿はそのまま還幸祭まで御旅所庫内(奉安殿)にて奉安される。
その後は‥‥
- 神幸祭:午前11時
- 本社発輿:14時
14時に本殿を発御→14時25分に京都駅烏丸口を渡御→そのまま塩小路通→木津屋橋通りを直進し、→大宮通で左折して直進→東寺駅手前の脇右を左折して→14時40分に御旅所に着到
- 想定所要時間:40分
区内巡幸(氏子祭)
おおむね神幸祭から1週間後の日曜日になると氏子らによる神輿渡御がある。
御旅所に稲荷大社の氏子地域の氏子らが参集の上、5基の神輿を担いで13時頃に御旅所を発輿し、それぞれの氏子地域を巡行する。
御旅所を発した神輿は、『あらよいよい♪』やら、『ほいっと〜、ほいっと〜♪』などと威勢よく掛け声を発しながら神輿行列が進む。
現在、氏子らによる迫力満点の渡御はこの氏子祭の時だけになるので、まさに稲荷祭最大の見どころともいえるものがある。
なお、神輿は台車と共に巡行するので、基本的に氏子たちがすべての途次、神輿を担がないが、時折、見物人へのサービスとしてなのか、わずかな距離を担いでパフォーマンスを披露してくれる。
5基の神輿と氏子町会一覧
社名 | 祭神名 | 神輿外観 | 神輿渡御の順番 | 担当町会 |
田中社 | 田中大神 | 1 | 不動堂町 | |
上之社 | 大宮能売大神 | 2 | 東九条町 | |
中之社 | 佐田彦大神 | 3 | 西九条町 | |
下之社 | 宇迦之御魂大神 | 4 | 塩小路町・中堂寺町(交代) | |
四之大神社 | 四大神 | 5 | 東寺町・八条町 |
これら5基の神輿は「五ヶ郷(ごかごう)」とも呼ばれる上記()内の氏子地域の氏子たちが担ぐ。
古くから稲荷祭には、宮本組、川西崇敬会と、それに上記、五ヶ郷の各氏子地域が参画・奉仕し、神輿担ぎのほか、神幸祭・還幸祭の行列奉仕も行った。
🦊宮本組
宮本組とは「お宮の本(もと)」を意味する。往時は「宮元」とも書かれたらしく、名前の通り、宮(八坂社)のお膝元(氏子地域)に在住する祇園で商売を営む老舗旦那衆たちのこと。五条通の鴨川から東側に位置。
「宮本組無くして祭礼行えず」とまで言われるほど、平安時代から脈々と続く伝統でもあるらしく、現今の祇園祭(八坂社)の祭礼奉仕(主に神幸祭・還幸祭)を手がける。
調べると稲荷祭においては「大賢樹」と呼ばれる大きな榊(さかき)を復興させたらしい。
かつての応仁の乱では神輿が出せなかったので、室町幕府が神輿の代用として、榊を用いて祭典を継続するように命じたと伝わる。(史料が現存)
🦊川西崇敬会
有隣学区(ゆうりんがっく/東:寺町通、西:東洞院通、南:五条通、北:松原通にわたる旧学区のこと。1929年・昭和四年4月に設置)の川西崇敬会や神事委員会のこと。
還幸祭では御旅所から発した神輿が付近の東寺(教王護国寺)へ入り、東寺での儀式を終えた後、五条大橋を渡橋し、本社(伏見稲荷大社境内)へ還御する。
なお、かつての稲荷大社の氏子地域は洛中の約3分の1もあったらしく、これは稲荷の神が御所の巽の方角(たつみ/南東)を守護する福神として多大な尊崇が寄せられていたことを傍証する。
渡御ルート
巡幸を終えた神輿は伏見稲荷大社に還るのではなく、再び御旅所に還ってくる。
すなわち巡幸ルートとしては、『御旅所⇒氏子区域⇒御旅所』とな〜る。
この氏子祭から還幸祭にかけては地元民のみならず、観光客数もグっと増加し、殷賑極まりもっとも混雑す〜る。
屋台
忘れてならぬぁいのが、氏子祭・還幸祭の大きな見どころとなる「露店(屋台)」の存在ではなかろぅか。
御旅所内やその周辺には数多の屋台が軒を連ね、さらに賑わいをみせる。
屋台の種類
お好み焼き、焼きそば、たこ焼き、かき氷、カルメラ焼、ベビーカステラなどの定番グルメ系屋台のほか、お面、おみくじ、スーパーボール掬いなどの遊戯系屋台など。
氏子祭・還幸祭は、折しもゴールデンウィークと重なることもあり、例年、混雑必須の祭典となる。
還幸祭(かんこうさい)
還幸祭は、長らく御旅所に逗留した神様(稲荷大神)を再び伏見稲荷大社の本殿へお還し(お戻し)する祭事となる。
まずは奉安殿に奉安される5基の神輿をトラックの荷台へお乗せし、御旅所から直接、伏見稲荷大社へお還りいただくのではなく、まずは京都駅付近の「東寺(とうじ)」へ還向する。⬆️入会する素振りをしまくり無料キャンペーンの試飲試食をバカ喰ぃして帰ったが、ぬか喜びさせられた営業員の怒り心頭具合ほど噂の‥‥「東寺東門(慶賀門)」
東寺の東門では東寺僧らが堵列を組んでトラック荷台上の神輿を出迎え、稲荷大神へ神饌(しんせん/供え物)を奉納し、読誦を行ぅ。
還幸祭の渡御ルート(過去一例)
- 神輿迎列本社出発:午後0時40分
- 御旅所発輿:14時
- 還幸祭:16時より開始
御旅所を14時に発輿し、14時05分に十条通へ→大宮通へ入って→東寺の東門(慶賀門)へ着到後、神饌献供の儀(しんせんけんく/お供物を供じて稲荷の神をもてなす)を厳修(約10分)→五条通りで右折し→途次、左折して松原通へ入り直進→河原町通りを南下→東山七条へ(東端)→再び五条通り→七条通→京都駅前の横目に直進→竹田街道→第一軍道(京都府道201号中山稲荷線)での停留後→伏見街道から表参道へ入る→本殿へ15時50分に着輿(予定)
- 想定所要時間:1時間50分
かつて神輿は御旅所に二十日間も逗留した?
神幸祭は明治まで3月中旬頃の午の日に斎行され、御旅所に約20日間も駐輿し、4月中旬頃の卯の日に還幸祭が執行されていたらしい。
現状の稲荷祭期間は2週間だが、明治以前は大方3週間に及んだことにな〜る。
なお、明治以前の稲荷祭では稲荷の神が御旅所に逗留する期間が長かったことから、特別に「御旅中(おたびちゅう)」などと呼んでいたらしい。
葵柱奉懸の儀(あおいかつら ほうけん)
還幸祭当日の午前9時、本殿では「葵柱奉懸の儀」が執行される。
葵柱奉懸の儀とは、本殿内部(内陣)にて神輿(神璽)を再び出迎えるため、御簾(みす/すだれ)を5つ、葵5個を桂の枝3本づつを飾り立てる儀式こと。
また、宮司(ぐうじ)以下の神職・祭員・供奉者(ぐふしゃ)は葵柱の小枝を挿頭(かざし)して堵列し、お出迎えのための隊列として御旅所へ向けて進発す〜る。
その後、古来、稲荷社と関わりの深い東寺にて神饌(お供物)を受ける。
還幸祭は弘法大師と稲荷神の出会いを奉祝した祭典でもある
還幸祭は東寺(真言密教の中心的道場/世界遺産)を中興した弘法大師(空海)と稲荷山の稲荷神との奇跡の出会い、そして、稲荷信仰と真言宗の恩恵を受けた人々の今日の安寧を奉祝した祭典でもある。
面白いのは渡御の途中(14時頃)、神社の神輿が寺院である東寺境内へ入御するのだが、これは大師と稲荷の神にまつわる縁起を重んじた人々の崇敬の念から生じたものであり、還幸祭を通じて当該、お二方の出会(厳密には再会)を神仏混淆の儀式を通して再現する。
東寺の慶賀門(けいがもん/東門)には東寺の寺僧が整列し、稲荷の神が乗ったトラック荷台上の神輿を迎える。
その折、読誦(経読み)を混えた神饌献供の儀(しんせんけんく/お供物を供じて稲荷の神をもてなす)を執行する。
そぅ、それは大昔、まるで大師が稲荷の神を東寺の南大門で出迎え、盛大にもてなしたかのよぅに‥‥。
この神饌献供の儀で神供を受けた後の約2時間、稲荷大社の氏子地域(京都市内)を巡行し、本社へ到着する。
本社へ着到した神輿は神璽(神の御霊)が取り出され、本殿へお遷した後(移した後)、稲荷の神の還御を讃える還幸祭の神事が斎行される。
室町時代には40から50基もの稲荷祭の山鉾が渡御した
室町時代の稲荷祭では、40から50基もの山鉾が巡行し、江戸時代には葵祭(賀茂祭/上賀茂神社・下鴨神社の祭典)、祇園祭(八坂神社の例祭)とともに「京の三大祭」の一つにも数えられた。
京都三大祭一覧
- 賀茂祭(葵祭)
- 祇園祭
- 稲荷祭
松原通はかつて五条通と呼ばれた通りであり、現在の五条通はさらに南側の五条大橋が架かる通り。国道一号線が該当。
この松原通を境に北側が八坂神社の氏子区域、そして南側が稲荷社の氏子区域とされ、往時は山鉾が松原通を通り、盛大な渡御が行われた。
現在は様々な理由があって神輿渡御or山鉾が出ないが、約30台もの大型トラックが連なって走行する姿が見られるのは稲荷祭の時のみ。
2012年に復興された山鉾「天狗榊」
天狗榊とは、神輿を迎えるための迎え提灯を搭載した山車であり、明治時代に廃絶したが、2012年になって有隣学区の神事委員会らが中心になって復興された。
出典:元有隣小学校
稲荷祭山車「天狗榊」懸装品 10点が、2003年(平成15年)4月1日に登録有形文化財の指定を受ける。制作には氏子たちが協力した模様💋
現在、天狗榊は稲荷祭の期間中の4月下旬頃、有隣学区を渡御している模様💘(出輿日は不明。氏子祭と並行して同日に実施されているのでは)
約30台のトラックの車列
約30台のトラックの車列の最後には往時の名残なのか、お稚児さんが乗り込んだトラックもある。
神輿の代用となる低速走行のトラックにせよ、荷台に”搭乗”して”登場”した参列者たちに手を振り、それを和かな笑顔を以って手を振りかえす‥‥そんな姿も今日の京洛の風物詩ともいえる。
神輿を担がなくなった経緯(理由)
伏見稲荷大社の本殿がある周辺は藤森神社の氏子地域となっていることや、現状の交通事情に配慮し、1962年(昭和37年)からトラックor一部、台車に乗せての巡行となった。
(あとみやさい)
稲荷祭は翌日4日の午前10時より本殿にて
稲荷祭の歴史
稲荷祭の歴史は古く、平安時代前期にはすでに斎行されていたとされ、稲荷社祀官の大西親盛が1732年(享保十七年)に著した稲荷谷響記によると、貞観年間(859年から877年まで)には濫觴があったと記す。
伏見稲荷大社(公式)の稲荷祭紹介ページにも記されるように、平安時代の公卿・藤原資房が著した春記(しゅんき)によると、1040年(長久元年)に斎行されていた事実や、平安後期の公卿・藤原 宗忠(ふじわら の むねただ)が1087年(寛治元年)〜1138年(保延四年)までの間に著した「中右記(ちゅうゆうき)」には稲荷祭の盛行ぶりが記される💘
どうやら、稲荷祭は平安中期になると貴族などの冨貴者の崇敬者が牽引したこともあってか、葵祭(あおいまつり)や祇園祭(ぎおんまつり)などとも肩を並べるほどの祭典へと発展し、神輿が渡御する沿道には、おびただしい数の桟敷(さじき/物見席)や群集する人々で溢れかえり、殷賑華々しかった模様❤️
1161年(応保元年)
平安末期の公卿・中山忠親が著した山槐記(さんかいき)には後鳥羽上皇が七条東洞院にて稲荷祭を見物した様子が記される。
平安中期頃には御霊会へと変貌した?
平安後期に成立したと伝わる公卿・大学頭の藤原明衡(あきひら)らが編纂した「雲州消息(うんしゅうしょうそく)」に「十家之産」と記されるように、10つの家が合わさっても買えないような煌びやかな金銀を散りばめた衣装をまとい、荘厳華麗さを競い合ったらしい。
それだけにとどまらず、馬長(馬に乗って参列)や剣鉾、山車が出御するなど、当初は農耕祭だった稲荷祭が貴族共がパトロンになったことで平安中期頃には八坂社の祇園祭に近似した御霊会(ごりょうえ)へと変貌したとみれる。
1094年(寛治八年)4月9日条に「今日稲荷御霊会也」と記されることが、この事実を傍証する。
稲荷祭は室町時代に殷盛極まった
1441年(嘉吉元年/室町時代)に成立した「東寺執行日記(とうじしぎょうにっき)」の4月13日条には「稲荷祭、結構殊之外也、鉾 三十六本 作山十、鉾毎に作山をして渉之」などと記し、
嘉吉二年の4月13日条にも「稲荷祭礼、山鉾五十色斗有之、七条には立車、二条殿様、其外車多、鉾ノ内にて色々の舞有之」と記すことからも当時の稲荷祭の盛行ぶりが想像できるように30〜50もの山鉾が出御し、作り山(今日の大嘗祭などに用いる標山に近似したもの)、数多の山車や鉾、そして稲荷祭を見物する貴族たちが行列を伴って華々しく参列する様子が記されてい‥‥‥申す。きゃ
応仁の乱で一時期、廃絶
室町時代中期に勃発した応仁の乱(1467年/応仁元年〜1477年/文明9年までの約11年間に及んだ戦争)では稲荷社境内灰燼に帰し、辛くも五基の神輿は持ち出され近隣の東寺へ預けられることで最悪の事態は回避できたと伝わる。
なお、この頃の稲荷祭では稲荷大社の神輿が東寺境内にまで渡御していたらしく、ひとえに神輿が東寺境内に安置できたのも(現在は東門の入口まで)平安期から脈々と踏襲される大師と稲荷神との宿縁がもたらした賜物だといえ〜る。
稲荷祭は江戸時代になって復興される
山口幸充が著した自身の「山口幸充日次記(ひなみき)※日々の出来事を日次で綴った日記」の1747年(延享四年)4月8日条に「稲荷祭礼也、従午刻出歩(1時から13時に外出)、路次(路地)所々 ニ而(にて)練物(神輿などを中心とした祭礼行列) 造物見之会悦目(人が丹精込めて作った傑作を見て楽しめた)」‥‥‥と記されることから、江戸時代中頃には完全とまではいかないものの、一応の復興は成ったとみる。
稲荷祭は応仁の乱以後は長らく復興されることなく、廃絶に近い状況にあったと伝わるが、岩佐又兵衛という江戸時代の画家が制作した「稲荷祭礼図屏風」や「稲荷神社祭礼絵巻」などには稲荷祭が催されている様子が描かれていることから、現在のように毎年かどうかは判然としないが、なんにせよ江戸時代には復興されていたとみることができる。
1787年(天明七年)には神輿渡御が復興されていた?!
1787年(天明七年)秋に刊行された「拾遺都名所図会(都名所図会の続編)」には、東寺境内に奉安される五基の神輿の様子が描かれていることから、江戸時代中・後期には現状に近い状態で復興されていたとみることができる。
⬆️腹減りの音と屁の音を間違えられて赤っ恥、即2つ向こうの車両に移動した複雑な心境ほど噂の‥「稲荷神輿東寺神供」 画像引用先:国際日本文化研究センター
廃仏毀釈・神仏分離によって東寺境内への神輿渡御が廃絶
廃仏毀釈・神仏分離令によって神仏が切り離されると、これまでの東寺境内への渡御は中止され、現状に見られる東寺東門前までの渡御となった。
太平洋戦争中に再び廃絶
太平洋戦争の戦時中には再び稲荷祭の斎行は廃絶し、戦後になっても復興される兆しはなかったが、1966年(昭和四十一年)に氏子らの力添えのもと、一応の復興をみた。
だグぁしクぁし!
京都洛南における交通事情が変わったことや、元来、藤森社と稲荷社の氏子地域は入り組んだ複雑な状況にあるなどの理由から、現在ではトラックの荷台に神輿を乗せて巡行する運びとなっている模様💘
ちなみに余談だが、稲荷大社の神輿は想像以上に重たぃらしく神輿を担ぐ輿丁一人当たりの荷重は40kgにも及ぶらしい。