【荷田東丸大人!合格祈願で有名!】東丸神社の境内見どころをご紹介!

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東丸神社

造営年

  • 1883年(明治16年)

※1890年(明治23年)とする場合もあり

再建年

  • 1936年(昭和11年)
本殿の建築様式・屋根の造り

  • 春日造、銅板葺
主祭神

  • 荷田春満命(かだのあずままろのみこと)
ご利益

  • 学業成就、試験合格など
例祭

  • 4月3日

東丸神社の読み方

東丸神社は、ヒガシマル醤油からの流れで思わず「ひがしまる」と読みそうになりまするが、なんとぉぅ!「ひがしまろ」でもなく‥‥‥

‥‥‥

あずまろ‥‥‥でもなく‥‥‥ はよ言わんかぃ!

「あずままろ」神社と読みます!

お察しの通り、御祭神である荷田春満(かだのあずままろ・東丸とも)のお名前の神社というわけです。

なお、東丸神社では、御祭神を、「先生」「師匠」などという意味の「大人(うし)」を付け、「東丸大人」と呼んでいますが、こちらのページでは敬称は省略し、一般的に知られている名前ということで、「荷田春満」と表記することにします。




東丸神社の歴史・由来

東丸神社は、伏見稲荷大社の境内社のように見えますが、正確には伏見稲荷大社と「隣接する」、独立した神社です。

荷田旧邸の一部に社殿を築いたもので、隣には春満旧宅もあります。

春満の死後、1883年(明治16年)に、正四位の位が贈られたのを機に、稲荷社宮司らによってその学徳を称えるための神社創建への動きが起こり、社殿が造立されました。

現在の本殿は1936年(昭和11年)に改造営されたものです。

なお、春満には1919年(大正8年)に従三位の位が追贈されています。

東丸神社の御祭神・荷田春満

学問の神様として祀られる荷田春満は、江戸時代の学者です。

1669年(寛文9年)、この地(現在の京都市伏見区深草薮之内町)に伏見稲荷大社の社家・荷田(羽倉)信詮(のぶあき)の次男として生まれました。

本名は羽倉信盛(はくらのぶもり)、号(ごう:本名の他に用いる名前)を春満(東丸)といいました。

賀茂真淵・本居宣長・平田篤胤と共に国学四大人(しうし)の一人として数えられる歌人・国学者です。

荷田氏は伏見稲荷大社の社家の1つであり、神職を世襲する家柄でしたが、春満は神職にはならず、古典研究に没頭しました。

東丸神社のその他の授与品(竹棒と絵馬)

東丸神社の社務所(授与所)では、「としまいり」に使う竹串(竹棒)の奉納や、絵馬の奉納も受け付けています。

奉納竹串

竹串は、御祭神のご加護で無事に試験に合格した場合などに、御礼として奉納します。

初穂料500円を納めて3本の竹棒を受け取ったら、「合格御礼〇〇大学 ××(名前)」などと記入して奉納します。

  • 初穂料(値段):3本500円

奉納絵馬

東丸神社の境内の絵馬かけには、いつもたくさんの絵馬がかけられています。

絵柄は、東丸神社の社殿、拝殿の鈴、折り鶴、御祭神(幼少期)の4種類があります。

  • 初穂料(値段):各600円

東丸神社のおみくじ

東丸神社の社務所には、おみくじもあります。

白い紙のシンプルなおみくじです。

  • 初穂料(値段):200円




東丸神社の学業成就・合格祈願と「智恵参り・呆気祓い」

東丸神社の祈祷(受付時間・初穂料など)

東丸神社では、学業成就を始め、主に以下のような内容の祈祷を行っています。

近年は、学業成就や合格祈願に加え、就職達成の祈願に訪れる「就活」中の人も多いようです。

祈祷の申し込みは毎日受け付けています。

祈祷内容

入学達成、智慧増進、芸事達成、身体健全、呆気祓、学問向上、就職達成、資格試験合格、心願成就 など

※試験当日の祈祷もできます。ご希望の場合はお早めに東丸神社までご相談ください。

祈祷料(初穂料)

  • 1回(1日)5,000円
  • 2回(2日)8,000円
  • 3回(3日)10,000円
  • 1週間(7日間)20,000円
  • 1か月(30日間)60,000円
  • 毎月(12か月・12回)30,000円
祈祷申込時間

  • 毎日9時~16時

なお、やむを得ず直接参拝できない場合は、郵送での申込みも可能ということです。

詳しくは、電話でお問い合わせください。

  • 東丸神社の電話番号:075-641-4693

自由参加!東丸神社の「智恵参り・呆気祓い」

日程

  • 毎月3日、11時から
場所

  • 本殿

東丸神社では、毎月3日、午前11時から、自由に参列できる「智恵参り祈祷」と「呆気(ほうけ)祓い」の祈祷を行っています。

「呆気」は、「ほうけ」または「ぼけ」と読みますが、こちらのお祓いは「ほうけ祓い」です。

頭の鈍った部分を改善したり、痴呆症や物忘れを防止したりするということですね。

参列者が多い場合は立っての参加となる場合がありますが、せっかくの機会ですので、3日にお参りの際は、ぜひご参列ください!

東丸神社 本殿の建築様式と特徴

東丸神社の本殿の前には、拝礼を行う拝殿代わりに屋根が設置されています。

祈祷を申し込むと、中に入ることができますが、通常は手前でのお参りになります。

本殿の屋根を含め、東丸神社の社殿の屋根は銅板葺です。

現在は青っぽい色をしているのであまりピンと来ないかもしれませんが、葺き替えたばかりの時は銅色(茶色)をしています。

本殿の建築様式は、奈良の春日大社などに代表される「春日造」です。

左右に向かって斜面のある「切妻造・妻入り」の建物で、正面に向拝(こうはい・ごはい)または階隠し(はいかくし)と呼ばれる庇(ひさし)が付いているという特徴があります。

残念ながら外からはほとんど見えませんが、春日造の社殿には、普通、他にも以下のような特徴があります。

①鮮やかに彩色されていることが多い

東丸神社の本殿も、美しい朱色です。

②正面と奥行きが一間(いっけん)の、ほぼ正方形の造りになっている

東丸神社の本殿も、一間、つまり、正面の柱と柱の間が1つ(正面の柱が2本)の一間社春日造です。

③正面に向拝・向拝柱、高欄付きの木階(きざはし・階)がある

目の前まで行ってしまうと見えませんが、少し離れて鳥居のあたりから見ると、向拝が付いていることがわかります。

④屋根の上に置千木(おきちぎ)と鰹木(かつおぎ)がある

同じく、離れて見ればわかります。

千木は屋根に乗ったXまたはV型のもので、もともとは垂木(たるき)を延長させて交差させたものでしたが、後に、春日造のもののように、X型に組んだものを屋根に置いただけの千木が登場しました。

この、置いただけの千木を特に「置千木」と言います。

また、棟木の上に垂直に並べられた丸太などを「鰹木(堅魚木)」と呼びます。

春日造の鰹木は、「細くて黒塗り」が基本形となっています。

千木と鰹木の特徴で御祭神の性別がわかる!

実は、社殿の千木と鰹木を見ると、御祭神の性別がわかる場合があります。

東丸神社の本殿の場合、見えにくいですが、千木の先端は地面と垂直方向に切られてとがった形の「外削ぎ」で、この千木を持つ社殿の御祭神は、男神であることが多くなっています。

また、東丸神社の本殿の鰹木は3つで、奇数の鰹木も、男神を祀る社殿の特徴です。

一方、御祭神が女神の場合、千木は地面と平行方向に切られた「内削ぎ」で、鰹木は偶数の場合が多いので、注目してみてください。




東丸神社 境内と周辺の見どころ

 東丸大神由縁の井水(手水舎)

東丸神社の本殿手前には、他の神社と同じように、手や口を清める手水舎があります。

現地案内板によりますと、この井戸水は御祭神・荷田春満公誕生の際に産湯として用いられ、以降、学問研究に際しては硯滴(すずりのみず)として常に愛用されたもので、今もなお清水が湧き出ているという、由緒ある水なのだということです。

 としまいりの石

神社の入口には、「としまいりの石」という石標のようなものがあります。

「としまいり」は、同じ寺社に100回詣でる「お百度参り」のようなものですが、「年参り」の名の通り、参拝は「年の数だけ」です。

方法は以下の通りです。

  1. 本殿(拝殿)前に置かれている竹棒を年齢の数だけ手に持つ
  2. 本殿と「としまいりの石」との間を心静かに往復しながら、本殿の前に着く度に願い事をし、竹棒を1本ずつ箱にお返しする

このようにお参りをすると、心願成就、つまり、願い事が叶うのだといいます。

竹棒の箱

ちなみに、としまいりに使う竹棒は、東丸神社にお参りした後、試験に合格するなどした御礼として、参拝者が奉納したものです。(3本500円、社務所にて取扱い)

つまり、神のご加護を受け、実際に結果を出した人たちの感謝の気持ちが詰まった竹棒を手にして、お参りをするということになります。

 荷田社・春葉殿

荷田社

主祭神

  • 荷田殷、荷田嗣、荷田早、荷田龍(四霊合祀)
例祭(荷田祭)

  • 12月13日

境内にある荷田社(かだのやしろ)は、荷田春満の遠祖「荷田殷」、「嗣」、「早」、「龍(龍頭太夫、龍頭太)」と合祀する社です。

既に触れましたが、荷田氏は、代々、伏見稲荷大社の神職を世襲した、社家(しゃけ)と呼ばれる家柄でした。

711年(和銅4年)に稲荷大神が稲荷山三ヶ峯に鎮座された際、最初に奉仕したのが第21代雄略天皇の皇子磐城王(いわきのみこ)の末裔、荷田殷だったと伝わっています。

特に龍は学問に秀で、弘法大師空海とも親交があったと伝わる人物で、龍頭太(りゅうとうた)とも呼ばれ、数々の伝説が残っています。

弘仁8年、龍の臨終の際、本物の龍が呼んだかのように黒雲が発生して激しい雷雨と強い風が起こり、梅の花がことごとく裏向きに散ったさまが龍神が昇天する時のようだったと伝えられていることから、荷田家の家紋は「一重裏梅花」を用いているそうです。

一重裏梅花紋や梅の花をかたどったデザインは、境内のあちらこちらにありますので、ぜひ注目してみてくださいね。

拝殿の幕と賽銭箱
拝殿脇の玉垣
社務所の瓦にも梅の紋があります!

なお、伏見稲荷大社の境内には、こちらとは別に、荷田氏を祀る「荷田社」が2か所あります。

そのうちの1社、稲荷山「間ノ峰」にある荷田社の由来や荷田龍頭太の伝承などについては、当サイト 京都・伏見稲荷大社「荷田社」でご紹介しています。




春葉殿

荷田社の向かって右隣りにある社は、「東丸大人(あずままろうし)御神像」を祀る春葉殿です。

社名は荷田春満の歌集『春葉集(しゅんようしゅう)』に由来しています。

大人(うし)とは、上述の通り、学者や師匠に対する敬称で、「〇〇先生」のようなものです。

春葉殿は、古いお守りやお札をお返しするための納札所になっています。

【番外編】荷田春満旧宅

東丸神社は「荷田旧邸の一部に社殿を築いたもの」とご紹介しましたが、荷田氏一族の住居は、神社の隣に残っています。

春満の生家と伝わる平屋建て・書院造の建物で、一部は春満の死後に焼失したものの、書院、神事舎、門、塀などが残っており、現在は「荷田春満旧宅」として、1922年(大正11年)に国指定史跡となっています。

通常、内部は非公開ですが、南北に配された美しい日本庭園が近年修復され、2012年と2016年には特別一般公開が行われました。

一般公開時の様子

【足を延ばして・・】荷田春満の墓へ!

ここまで見てきて、荷田春満という人物に興味を持ったあなたは、ぜひ、墓参りもしてみてください。

東丸神社の東側に「荷田東丸大人墓道」の石標があり、そこから4~5分ほど歩いたところに、羽倉家、そして春満公の墓もあります。

「荷田羽倉大人出墓」と刻まれた大きな墓石ですが、通りに背を向けて建っていますので、注意して探してみてください。

荷田春満の墓の場所(地図)

石標がある場所から、南東方向へ徒歩4分ほどです。




東丸神社の場所・境内図(地図)

伏見稲荷大社の楼門を入って正面に見える外拝殿の右手に、東丸神社の鳥居が見えます。

東丸神社の境内図

東丸神社は、鳥居から本殿まで、約30m、一直線です。

本殿に向かって左側に、社務所や手水舎などが並んでいます。

東丸神社の拝観時間・住所・お問い合わせ先など

  • 拝観時間:境内自由、社務所(授与所)9時~17時頃
  • 拝観料:無料
  • 住所:伏見区深草藪之内町36
  • 電話番号:075-641-4693
  • ホームページ(京都観光Navi):https://www.azumamaro.com/

※社務所は閉まってしまいますが、夜でも参拝はできます!

東丸神社へのアクセス

東丸神社は、伏見稲荷大社に隣接しています。

アクセスや駐車場の情報は、当サイトの以下のページ↓をご覧ください!

 京都駅などから伏見稲荷大社へのアクセス

 伏見稲荷大社の周辺の駐車場

東丸神社の関連記事一覧

伏見稲荷大社の御朱印の種類や値段・授与場所(授与時間)

東丸神社の前には伏見稲荷大社の広大な境内が広がっています。

 伏見稲荷大社で授与されている御朱印の種類については、当サイト京都・伏見稲荷大社の御朱印(期間限定含む)の「種類・値段・購入場所(授与所)・営業時間・混雑状況」についてをご覧ください!

【補足】御祭神・荷田春満についてもっと詳しく知りたい!

既に簡単に触れた荷田春満の生涯について、さらに詳しくご紹介します。

皇族と江戸幕府への出仕

1697年(元禄10年)から2年ほどは、霊元天皇の第五皇子・妙法院宮尭延法親王(みょうほういん ぎょうえん ほっしんのう)に歌道の師として仕えましたが、その後は江戸で古学の研究を行います。

江戸幕府にも複数回出仕し、8代将軍徳川吉宗には幕府書庫の蔵書の鑑定・閲覧などを命じられ、幕府に伝わる書物の間違いの指摘・訂正を行い、また、故実、書籍、古語についての質問にも答えました。

荷田春満はあの赤穂浪士とつながりがあった?

また、江戸在住中は、多数の武士らに歌学や神道の講義を行いました。

その門人の中に、吉良上野介(きら こうずけのすけ)もいましたが、春満は、彼の日ごろの汚行を見聞きし、教えるのをやめてしまいました。

その後、有名な「赤穂浪士の討入り(赤穂事件)」が起こるわけですが、これに際しては、かねて親交のあった大高源吾に吉良邸の見取図を作って渡すなど、赤穂浪士を援助したという逸話も伝わってます。

荷田春満の学問

春満は、学問の方法として朱子学・漢学が極端に尊ばれる中、日本固有の文化や精神を重んじ、古典研究を通じて古学(国学)、古来の神道を復興させることに力を注ぎました。

多数の門人を持ち、古学普及のため精力的に講義を行い、晩年は国学の学校の創建にも意欲的でしたが、志半ばで病に倒れ、1736年(元文元年)に68歳で亡くなりました。

荷田春満が病に倒れたと聞いた将軍・徳川吉宗は、江戸から秘薬を何度も届けたと言われています。

臨終に際しては、「研究が不十分なものを残しておくと、かえって後世に問題が生じかねない」という良心から、研究が未完のものは燃やすように命じたため、燃やされてしまったものもあるそうですが、春満の著作などは現在まで多数残っています。

新しい方法を取り入れながら、神道や歌道を基に『古事記』『万葉集』『日本書紀』などの古典・国史研究の基礎を築いた春満の学問は「荷田学」とも呼ばれ、門下の賀茂真淵らによって大成されました。

儒教や仏教の影響を受ける以前の日本固有の精神に立ち返ろうという「復古神道」を重んじた春満の学問を始めとする江戸時代の国学は、やがて天皇に忠義を尽くすべしという勤皇思想の源となり、明治維新の思想的な原動力となりました。

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