築城、地震、落城と再建・・「伏見城」の壮絶な歴史を紐解く!

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築城、地震、落城と再建・・「伏見城」の壮絶な歴史を紐解く!

現在の伏見桃山城の天守閣・小天守は、かつての伏見城を模した「模擬天守」です。

本来の「伏見城」は、豊臣秀吉や徳川家康によって築かれ、数々の歴史の分岐点の舞台となりました。

「伏見城」は、どのような歴史を歩み、そして失われてしまったのでしょうか?

3つの「伏見城」

「伏見城」とは、豊臣秀吉と徳川家康が伏見区桃山の丘陵に築いた、3つの城の総称です。

その3つの城は、それぞれ建てられた場所の地名「指月(しげつ)」や「木幡山(こはたやま)」を冠し、以下のように呼ばれています。

  • 指月伏見城(指月城):豊臣秀吉
  • 木幡山伏見城:豊臣秀吉
  • 木幡山伏見城:徳川家康

なお、現在の伏見城は、「伏見桃山城」と言います。

伏見桃山城のアクセス・駐車場情報などについては、当サイト伏見城(伏見桃山城)の拝観情報(料金・時間)・アクセス(行き方)・駐車場と「季節のイベント・楽しみ方」でご紹介しています!

伏見城の歴史

それでは、豊臣秀吉による最初の伏見城「指月伏見城」の築城から、最後の「木幡山伏見城」が廃城となるまでの歴史をご紹介します。

①伏見城の前身~指月伏見城の築城

 1591年(天正19年):秀吉、別荘を造営

1591年(天正19年)12月、豊臣秀吉が関白職などを甥の秀次に譲った後、秀吉の政庁兼邸宅だった聚楽第も秀次のものとなり、秀吉は、京都・宇治川を臨む「指月の岡」(現・伏見区桃山町泰長老)に、隠居のための別荘を造営しました。

場所は、平安時代から観月の名所として知られていた指月周辺を散策した後、秀吉本人が決定しました。

この別荘が、伏見城の前身です。

ここでは、1593年(文禄2年)の伊達正宗との対面や、徳川家康・前田利家との茶会が行われました。

豊臣秀吉肖像

 1594年(文禄3年):別荘を城とするため改修

当初は隠居城となる予定の別荘でしたが、秀吉は、まもなく予定を変更することになります。

1593年(文禄2年)、側室・淀殿(茶々)との間に嫡子・秀頼が誕生し、大阪城を秀頼に与えると想定したことなどから、伏見の別荘を城に改装し、大阪城に次ぐ政治的・軍事的な拠点とすることにしたのです。

改修・築城や周辺の土木工事、城下町の整備は、1594年(文禄3年)から、本格的に始まりました。

秀吉が淀殿に与えた淀古城(淀城)から天守や櫓(やぐら)が移建され、1595年(文禄4年)の秀次の切腹後は、破却された聚楽第からも建物が移されました。

こうして、最初の伏見城(指月伏見城)が造立されました。

指月伏見城の発掘調査

指月伏見城については、絵図などの資料がなく、正確な位置や姿形が謎に包まれていましたが、2015年(平成27年)に行われた伏見区桃山町のマンション造成地の発掘調査で、指月伏見城(指月城)のものと考えられる石垣、堀、金箔瓦などが出土しました。
※一部は伏見城が倒壊した場所を埋め立てて建てた大名屋敷の跡とも言われています。

この発掘調査で見つかった遺構は、痕跡がほとんど残っておらず、「幻の城」とも言われる指月伏見城が、この地に実在したことを裏付けるものとして、注目されています。

②秀吉の木幡山伏見城

 1596年(慶長元年):指月伏見城が地震で倒壊

そうして造営された「指月伏見城」でしたが、1596年(文禄5年)閏7月の「慶長の大地震(慶長伏見地震)」によって天守閣の上二層が倒壊してしまいました。

その頃、近畿地方では地震が頻発していたこともあり、閏7月の大地震を受けて、10月には元号が「慶長」と改元されています。

 1957年(慶長2年):木幡山伏見城が完成

秀吉は地震直後に小屋を建てて避難生活を送った「木幡山(こはたやま)」(現・伏見区桃山町明治天皇陵域内)にて、城の再建に取り掛かります。

地震の被害にあった元祖・伏見城(指月伏見城)から再利用可能なものが多かったこともあり、工事はハイスピードで進み、閏7月の地震の後、10月には本丸が、翌年5月には天守閣や殿舎が完成し、秀吉・秀頼が入城しました。

現在、伏見桃山城運動公園の北側にある北堀公園はこの木幡山伏見城の巨大な外堀(幅150m、深さ15m)の遺構で、中段に園路、堀の底部分に広場や池などを整備しています。

伏見北堀公園

また、10月には茶亭学問所も造られ、その先には宇治川から舟を直接横付けできる舟入場が設けられました。

この茶亭学問所周辺の遺構は、桃山町丹後に、南北約300m、東西約90mという巨大な窪地として残されており、舟入場跡には、伏見城御船入址」として、案内板と1基の灯明が残されています。

伏見城御船入址

宇治川で守られた南側に対し、脆弱だった北側には、堀と防塁を設け、その堀は「濠川」として残っています。

秀吉による伏見城(木幡山伏見城)の築城により、伏見は城下町として栄えることとなりました。

 今も地名に残る城下町の名残

かつて、諸大名の屋敷が軒を連ねていた城下町・伏見には、現在も、大名の名前や地名、官職名などを取った地名が多く残っています。

その例をご紹介します。

桃山町丹下、桃山町正宗、桃山最上町、桃山長岡越中町、桃山町永井久太郎、
桃山町島津、桃山町三河、桃山町伊賀、桃山町金森出雲、
桃山福島太夫町、桃山毛利長門町、桃山町松平筑前 など

 1598年(慶長3年):秀吉没

2代目の伏見城(木幡山伏見城)完成後、秀吉は大阪城と伏見城を行き来していましたが、晩年は伏見城で過ごすことが多かったと言います。

そしてとうとう、1598年(慶長3年)、幼い秀頼と五大老に後事を託し、伏見城で没しました。

秀吉の死後、遺言により、秀頼は大阪城へ移り、五大老の1人だった徳川家康が豊臣秀頼の大老(補佐役)として伏見城に入りましたが、間もなく大阪城に移りました。

③家康の木幡山伏見城

 1600年(慶長5年):伏見城の戦いにより落城

秀吉が建てた伏見城(木幡山伏見城)では、徳川氏の家臣・鳥居元忠が城代(じょうだい:城主の留守を守る役)の任に就いていましたが、1600年(慶長5年)8月、家康の出陣中に小早川秀秋・島津義弘連合軍に攻められました。

鳥居元忠肖像

伏見城は固く守られ、味方約2000人に対し4万人の兵力で攻められても容易には落ちませんでしたが、13日間の攻防で落城し、鳥居元忠は討ち取られ(自刃)、建物は焼かれました。

この戦は、翌月に始まる関ヶ原の戦いの前哨戦であり、「伏見城の戦い」と呼ばれています。

鳥居元忠の忠誠を伝える「血天井」

わずかな兵力で玉砕覚悟の籠城をして死んだ鳥居元忠の忠節は「三河武士の鑑(かがみ)」と称賛され、この時血に染まった畳は、家康が江戸城の伏見櫓(やぐら)の階上に置き、登城した大名たちに見せて元忠を偲ばせたという逸話が伝わっています。

江戸城伏見櫓(解体復元)

明治時代、江戸城が明け渡されると、畳は壬生藩(現・栃木県)の鳥居家に下げ渡され、壬生城内の元忠を祭神とする「精忠神社(せいちゅうじんじゃ)」の境内に「畳塚」を築いて埋納されました。

一方、血の付いた床板は、京都市の三十三間堂向かいに建つ養源院の天井になったとされ、「血天井」と呼ばれて、元忠の活躍とともに語り伝えられています。

養源院前の案内板

※江戸城の伏見櫓は、1628年(寛永5年)の西の丸造営に際し、伏見城から移築したものと言われてますが、証拠となる記述などは見つかっていません。1628年に移築となると、「家康が元忠の血に染まった畳を置いた」という話は年代が合いません(家康は1616年元和2年に死去)。
※「血天井」の伝承が残る寺院は、京都市・宇治市内に複数存在します。

 1602年(慶長7年):徳川家康が再建

関ヶ原の戦いで勝利した家康は、1601年(慶長6年)に入城して伏見城の再建に着手しました。

築城の名人として知られる藤堂高虎が普請奉行(土木・建築工事担当)に起用され、1602年(慶長7年)中にはほぼ完成しました。

その翌年、家康は新しい伏見城(木幡山伏見城)で征夷大将軍に就任しました。

徳川家康肖像

家康は将軍在任中、江戸城と伏見城を行き来していたものの、伏見城にいる期間が長かったため、伏見城とその一帯は、近畿地方において徳川政権の拠点となりました。

家康以降、三代将軍家光までは、伏見城で将軍宣下式を行うことになります。

1605年(慶長10年)には、家康が伏見城で朝鮮使節との会見を行い、秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)で関係が悪化していた朝鮮と和睦しました。

また、この年には新しく御殿が建設されています。

同年4月には、二代将軍・徳川秀忠の将軍宣下が実施されました。

その後、大御所となった家康は、改築した静岡の駿府城に入り、伏見城には城代や大番(おおばん)などの留守役が置かれました。


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 1615年(慶長20年):一国一城令~廃城

1614年(慶長19年)の大坂冬の陣、翌年の大坂夏の陣で豊臣氏が滅んだ後、江戸幕府は「一国一城令」を出しました。

これにより、京都(山城国)に二条城と伏見城の2つの城を持てなくなったため、1619年(元和5年)、伏見城の廃城が決まり、翌年には取り壊しが始まりました。

1623年(元和9年)には残った本丸部分に若干の修復をして三代将軍・徳川家光の将軍宣下が行われ、その後、伏見城は完全に廃城になりました。

伏見城の天守は二条城に移され、その他の建物も、京都の社寺の他、広島の福山城など、各地に移築されました。

現在、各地で「伏見城の遺構」とされているもののほとんどは、この家康の伏見城(木幡山伏見城)のものとされています。

廃城後、跡地周辺は開拓されて桃の木が植えられ、江戸時代中期には桃山という地名で呼ばれるようになりました。

織田信長と豊臣秀吉が政権を握っていた「桃山時代」の名称は、この地名に由来しています。

明治時代には丘陵の大半が皇室御料地となり、大正元年には、城跡に明治天皇陵(伏見桃山陵)が造営されました。

明治天皇陵

天皇陵に入ることはできませんが、周辺には伏見城に用いられていた矢穴(石の採掘や加工の際に入れる印)が入った石などが残されています。

矢穴石(例)
木幡山伏見城の遺構(航空写真)

木幡山伏見城跡には明治天皇陵が、東隣にはその后・昭憲皇太后陵があります。

復刻版伏見城「伏見桃山城」の歴史

現在の伏見城は、「伏見桃山城」と呼ばれている模擬天守(復元天守)を中心とした建築群で、既にご紹介した3つの伏見城とは別物です。

どのように建造され、今に引き継がれているのでしょうか。

 1964年(昭和39年):キャッスルランドオープン

伏見城跡地には、1964年(昭和39年)、遊園地「伏見桃山城キャッスルランド」が建設されました。

伏見桃山城キャッスルランド(当時)

運営は近鉄グループの株式会社桃山城、広さは国会議事堂の敷地面積とほぼ同じ約10万㎡で、現在まで残る「伏見桃山城」の模擬天守・小天守・模擬櫓門(大手門:正門)も、この時に建造されました。

五重六階の大天守と三重四階の小天守は、岡山県の杉原美術館が所蔵する『洛中洛外図』に描かれた徳川家康の伏見城(木幡山伏見城)を参考に設計された鉄筋コンクリート造の建物で、遊園地のシンボルとなりました。

当時は、模擬天守の中に入り、最上階の展望室から伏見の街並みを眺めることもできました。

アトラクションはジェットコースター、ゴーカート、お化け屋敷、観覧車など約20種類あり、夏場にはプールも人気でした。

 2003年(平成15年):キャッスルランド閉園

伏見桃山城キャッスルランドはお城のある遊園地として市民に親しまれ、年間入場者は最大約100万人(1978年(昭和53年))となりましたが、その後はユニバーサルスタジオジャパン(USJ)の開園、レジャーの多様化、少子化などの波の中で減少し、2003年(平成15年)、惜しまれながらも閉園しました。

年間100万人というのは東京・練馬区の遊園地「としまえん」(総面積約22㎡)の来場者数(2017年約93万人)や、千葉県の東京ドイツ村(面積約27万㎡)の来場者数(同約103万人)に近く、当時の人気ぶりが伺えます。

ちなみに、2003年当時のUSJの来場者数は約988万人で、最高は2016年の1460万人でした。
※2017年以降は非公開

さて、肝心の模擬天守は、キャッスルランド閉園後に取り壊しになる予定でしたが、市民の声により保存されることとなり、無償で京都市に贈与されました。

キャッスルランドの跡地も京都市により整備され、2007年(平成19年)に野球場や多目的グラウンドを備えた「伏見桃山城運動公園」がオープンしています。

ただし、耐震性や老朽化の問題で天守内部は開放されておらず、地震対策やバリアフリー化などの工事に費用がかかることなどから、キャッスルランド閉園から15年以上が経過しても、いまだに活用策は決まっていません。

なお、2018年の台風の被害により、屋根瓦やしゃちほこの一部が落下する被害が出ています。

 【番外編】「大阪城風」の期間限定改修

2007年(2019年)、映画『茶々 天涯の貴妃』で大阪城として撮影するため、伏見桃山城の模擬天守は期間限定で改修されました。

約1億円かけて、しゃちほこや高欄などを塗り替えたり、新たに装飾を施したりして、絢爛豪華な大阪城風の城に変わり、話題となりました。

この装飾はその後、元に戻されています。

伏見桃山城でロケが行われた主な映画やドラマについては、当サイト伏見城(伏見桃山城)の拝観情報(料金・時間)・アクセス(行き方)・駐車場と「季節のイベント・楽しみ方」でご紹介しています!

必見!京都市内に残る伏見城の遺構ベスト3!

上述の通り、伏見城(秀吉・家康の木幡山伏見城)の遺構は、各地に移築され、大切に守り継がれています。

中でも、京都市内にあり、特に必見のものを3つ、ご紹介します。

 御香宮神社(ごこうのみやじんじゃ)

主祭神は神宮皇后で、他に仲哀天皇、応神天皇を祀っています。

1594年(文禄3年)、豊臣秀吉は伏見城の築城に際し、鬼門の守護神とするため、この御香宮神社を現在地から大亀谷(現・伏見区深草大亀谷)に移しました。

1605年(慶長10年)には、元の地に戻されており、現存する本殿はこの年に造営されたものです。

表門(重要文化財)は1622年(元和8年)に寄進されたもので、秀吉時代の伏見城の大手門と伝えられています。

境内には300個近い石垣の残石が保管されている他、社務所には「金箔瓦」と呼ばれる伏見城の瓦が保存・展示されています。

金箔瓦とは

瓦の上に漆を塗り、その上に金箔を貼った瓦。
豊臣秀吉の伏見城(指月/木幡山伏見城)の殿舎や城下町の大名屋敷に敷かれていたと考えられています。
金箔瓦が本格的に採用されたのは、織田信長の安土城が最初と言われ、その後は一族の許可された建物にのみ、用いられました。
派手好きとして知られる豊臣秀吉もこの金箔瓦を好み、大阪城や伏見城、聚楽第などに採用しました。
また、豊臣家一門や重臣たちの間もに普及し、会津若松城や上田城など地方の城にも広がっています。
なお、金箔瓦は城の屋根全体に用いられたわけではなく、軒先の軒丸瓦や軒平瓦などの一部に、装飾的に使われていました。

京都市埋蔵文化財研究所蔵の金箔瓦

御香宮神社の住所・お問い合わせ先・アクセス

  • 住所:京都府京都市伏見区御香宮門前町174
  • 電話番号:075-611-0559
  • ホームページ:http://gokounomiya.kyoto.jp/
  • アクセス
    京阪電車「伏見桃山」駅から徒歩約5分
    近鉄電車「桃山御陵前」駅から徒歩約5分
    市バス「御香宮前」バス停から徒歩約1分

 高台寺(こうだいじ)

高台寺は、1605年(慶長10年)、豊臣秀吉の正室・北政所(きたのまんどころ/高台院、ねね)が秀吉の菩提を伴うために徳川家康の援助を受けて創建した寺院です。

伏見城の一部を移築して造営され、火災の被害で焼失したものもありますが、表門や茶室「傘亭」「時雨亭」(いずれも重要文化財)が現存しています。

時雨亭(手前)と傘亭(奥)

また、高台寺の向かい側にある塔頭・圓徳院の北庭(国の名勝)は、伏見城の北政所化粧御殿の前庭を移築したものです。

圓徳院の北庭

高台寺の住所・お問い合わせ先・アクセス

  • 住所:京都府京都市東山区下河原町526
  • 電話番号:075-561-9966
  • ホームページ:http://www.kodaiji.com
  • アクセス
    京阪電車「祇園四条」駅から徒歩約15分
    阪急電車「河原町」駅から徒歩約20分
    市バス「東山安井」バス停から徒歩約7分

 豊国神社(とよくにじんじゃ)

豊臣秀吉を祀る神社で、「ホウコクさん」と呼ばれています。

かつての壮麗な社殿は、大坂夏の陣の後、徳川家康によって取り壊され、現在の社殿は1880年(明治13年)に再建されたものですが、桃山期の伏見城の遺構と伝わる唐門(国宝)が残されています。

豊国神社の住所・お問い合わせ先・アクセス

  • 住所:京都府京都市東山区茶屋町530
  • 電話番号:075-561-3802
  • アクセス
    京阪電車「七条」駅から徒歩約10分
    市バス「博物館三十三間堂前」バス停から徒歩約5分
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