伏見稲荷大社・長者社【重要文化財】

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伏見稲荷大社・長者社【重要文化財】

創建年

  • 1499年(明応8年/室町時代)以前
建築様式(造り)

  • 一間社見世棚造り
  • 平入り
屋根の造り

  • 檜皮葺(ひわだぶき/ヒノキ)
御祭神

  • 秦氏の祖先(伏見稲荷大社の神官の一族)
社格

  • 伏見稲荷大社・末社

長者社の読み方

長者社は「ちょうじゃしゃ」と読みます。

長者とは、御祭神である秦氏がかつてこの伏見稲荷大社がたつ深草の地においての支配者、いわゆる「長者的」な存在であったことからその秦氏を祀る神社ということで「長者」の名前が付されているものと考えられます。




長者社の歴史・由緒

長者社は伏見稲荷大社に伝わる「稲荷社事実考証記」の「明応遷宮記録」によれば1499年(明応8年/室町時代)以前にはすでに存在したとされています。

伏見稲荷大社の社伝(稲荷谷響記)によれば1438年(永享10年)に室町幕府6代目将軍「足利義教」公によって現在普通にみられるような麓の宮域が造営されたと伝えられており、この時に本殿の造営と併せて創祀されたとも考えることができます。

もしくは1589年(天正17年/安土桃山時代)に太閤秀吉によって麓の宮域が拡張され、楼門が造営された時に併せてこの長者社も他の境内社殿群と共に麓に遷されて(移されて)社殿が造営されたのかもしれません。

なお、伏見稲荷大社は応仁の乱の影響により、稲荷山や現在の本殿の宮域が焼失し、このときに建物のみならず創建以来よりの記録や歴史が書かれた書物まで一切合切、焼失しています。

このようなことから、現在に至っては応仁の乱以降から伝わる書物しか現存していないことになります。したがって応仁の乱以前の伏見稲荷大社の様子を記録した書物となれば社外の書物しかありません。

長者社の建築様式(造り)

この長者社は一間流見世棚造りと表記されていますが、これは見世棚造りと流造りが用いられていることを示します。一間流見世棚造りとは見世物造りをと流れ造りに分けると考えやすいです。

「見世棚」とは商品を陳列できるようにした棚のことです。分かりやすく言えば、長者社を向かい見れば礎石から井桁状に骨組みを組み上げ、最上部を台に仕立てています。そしてその台にお供え物を供進できるようになっています。

⬆️参照写真は長者社の隣の「五社相殿」のもの。

「流造り」とは、屋根の形状のことでカタカナの「への字」型になっている屋根のことです。社殿の「殿」の部分から前に屋根が延びて庇(ひさし)のように覆いかぶさり、その下に先ほどの見世棚の台が設置されているので、お供え物が雨に濡れずに済みます。ウフ

長者社の屋根には江戸時代初期の木材が今も使用されている!

この長者社を一見すると真新しい印象を受けますが、これは最近、塗装が施されたからであり、実際、屋根の化粧材などには江戸時代初期のものと思われる用材が今も使用されています。

ちなみに伏見稲荷大社では1694年(元禄7年)に現在の楼門および本殿周辺の宮域が拡張され、このときに同時にいくつかの社殿が造営されています。代表例を挙げれば、現在の楼門はこのときに移築される形で再建されたものであり、そのうちの1つがこの長者社ということになります。

おそらく社頭拡張を好機とし、稲荷山の廃れていた社や、稲荷山ふもとに現存していた社などを移築する形で合祀したものと思われます。

ちなみにこの長者社は、隣り合う以下の3社とともに「上末社(かみまっしゃ)」と呼ばれています。

  1. 荷田社
  2. 両宮社
  3. 五社相殿
  4. 長者社

長者社の御祭神

長者社の御祭神は伏見稲荷大社を創建したとされる「秦伊侶具(はたのいろぐ)」の一族である「秦氏」をお祀りしています。秦氏は平安後期以降、歴史から姿を消していますが、たとえば秦氏と同じ伏見稲荷大社の神官の家系とされる「荷田(かだ)」氏は、この秦氏の血族です。

秦氏は秦の始皇帝の末裔だとも云われ、当初、大陸の技術を武器として朝廷に仕えて勢力を伸ばし、そののち次第に畿内を中心を勢力を誇るようになります。京都の古刹「広隆寺」は秦氏の一族である「秦河勝(はたのかわかつ)」が創建した神社とされます。

やがて九州に大きな所領を持ち、秦帝国を築き上げますが、現在の大分にある宇佐神宮も実はこの秦氏を祀った神社とも云われます。

長者社の場所(地図)

  • 本殿から徒歩約1分

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