京都・伏見稲荷大社「熊野社」【重要文化財】

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京都・伏見稲荷大社「熊野社」【重要文化財】

造営年

  • 1694年(元禄7年)
建築様式(造り)

  • 一間社春日見世棚造
屋根の造り

  • 檜皮葺
主祭神

  • 伊邪那美大神
社格

  • 伏見稲荷大社・末社
例祭

  • 7月14日、10時
重要文化財指定年月日

  • 2014年(平成26年)1月27日

熊野社の読み方

熊野社は、そのまま「くまのしゃ」と読みます。

熊野社の歴史

伏見稲荷大社によると、熊野社は、平安末期に流行した「熊野御幸(くまのごこう)」において、上皇らが稲荷奉幣(ほうへい)を行った際、立ち寄って拝礼されたと伝えられる社です。

1694年(元禄7年)に建て直され、その後は幾度か移築を繰り返し、1959年(昭和34年)、現在の地に遷座されました。




熊野御幸とは:

天皇の「行幸(ぎょうこう)」に対し、天皇の位を退いた上皇や法皇、女院(出家した天皇の母や内親王など)の外出は「御幸」と言います。
熊野への御幸は、907年(延喜7年)の宇田法皇の御幸以降、平安時代に徐々に盛んになりました。
その後、白河上皇が1090年(寛治4年)から9回の熊野御幸を行ったことがきっかけで、熊野信仰・熊野詣が爆発的・熱狂的ブームとなっていきました。
後白河上皇は33~24回、後鳥羽上皇は28回も御幸したと伝わっています。
鎌倉時代には武士や庶民にも広がり、あまりにも多くの人が詰めかけたため、「蟻(あり)の熊野詣(もうで)」と呼ばれるほどでした。

余談ですが、こんなにも熊野御幸がさかんだった一方、行幸は一度も行われていないそうです。
しきたりに規制された生活を送り多忙な天皇には、遠い熊野への行幸は叶わなかったのです。

奉幣とは:

神前に幣帛(へいはく)を献上すること。
幣帛とは、神に奉献する食べ物(神饌・しんせん)以外の供えもので、衣服や宝石、酒、兵器などがあります。

しるしの杉と熊野詣

熊野詣の行き帰りには、必ず稲荷社(伏見稲荷大社)に参拝するのが慣例となっていました。

この際には、稲荷社の杉の小枝を「しるしの杉」として頂戴し、体のどこかに付けておくのが一般的でした。

杉の木は枝葉が昌(さかん)に茂ることから、「椙」とも書き、古くから、家の繁栄を象徴するものとして尊ばれてきたのです。

『平治物語』には、平治の乱の幕開け前夜の緊迫した状況の中、平清盛が出発しかけた熊野詣を止めて引き返す際に、稲荷社へ詣で、杉の小枝を鎧の袖に差したという記述があります。

 伏見稲荷大社のしるしの杉に関して詳しくは、当サイト京都・伏見稲荷大社の初午大祭の「日程(開催時間)」「渋滞状況・渋滞回避策」でご紹介しています。

熊野詣の行き帰りに伏見稲荷大社に立ち寄ったのはなぜ?

交通事情が悪い中、往復で1か月ほどかかる京都ー熊野間の旅路は危険と隣り合わせでした。

そこで、出発時に安全祈願をするべく、貴族や皇族たちが立ち寄ったのが、稲荷社でした。

そのうちに、稲荷大神が護法童子(ごほうどうじ)を遣わして道中が安全であるように守護してくださるという信仰が定着したそうです。

ですから、熊野詣に出発する際に稲荷社へお参りし、護法童子を遣わしていただけるようお願いし、帰りにはお返しするためにまた稲荷社へ詣で、奉幣するようになり、この習慣を「護法送り」と呼びました。

護法童子とは:

 梵天、帝釈天、四天王などを含む仏法の守護神の使者として仏法を護持する子供の姿をした天人(神霊・鬼神)。

京都と伏見稲荷大社、熊野古道(三山)の位置関係

京都方面から熊野への道筋は何通りかありますが、例えば、白河上皇の御所があったとされる法勝寺(ほっしょうじ)から出発すると、6kmほどで伏見稲荷大社の前を通ります。

京の都から南下する途中に遠回りせずに立ち寄れる場所に、安全祈願のスポットがあったということです。

ちなみに・・

京の都(例:白河上皇御殿/法勝寺跡)から熊野三山の熊野本宮大社までの道のりは、以下↓のようになっています・・!

熊野社の主祭神・伊邪那美大神

伊邪那美大神(いざなみのおおみかみ)は、国産みや神産みの神話で知られる女神です。

『日本書紀』では「伊弉冉尊(いざなみのみこと)」と表記されますが、このイザナミが埋葬されたのが、現在の熊野市有馬村にある「花の窟(いわや)」であるとされています。

花窟神社(はなのいわやじんじゃ)のご神体の岩

また、「黄泉の国」への入口が、この熊野にあるとも言われています。

黄泉の国とは、亡くなったイザナミをしのび、夫であるイザナギが会いに行った場所、つまり「あの世」のことで、イザナギが妻の変わり果てた姿を見て逃げ帰ってきたというエピソードで知られています。

こうしたことから、熊野は死後の世界と通じる場所とされ、平安時代以降は浄土信仰とも重なり、死後の世界(黄泉の国/極楽浄土)に近い神聖な場所として重んじられてきました。

熊野詣から帰ることは神聖な地を踏んで心身の汚れを祓ってくること、そして、死後の世界から生まれ変わることだということで、信仰を集めたということです。

熊野詣の途中に立ち寄り安全祈願をする熊野社に、イザナミが祀られているということには、このような背景があったのです。




熊野社の建築様式(造り)

熊野社の社殿の建築様式は、「一間社春日見世棚造(かすが・みせだなづくり)」とされています。

「一間社」とは、正面の柱と柱の間「柱間(はしらま)」が1つ、つまり、正面の柱が2本の社殿のことです。

春日造とは、左右に向かって斜面のある切妻屋根を持つ妻入りの建物で、正面に向拝(こうはい・ごはい)または階隠し(はいかくし)と呼ばれる庇(ひさし)が付いているという特徴があります。

見世棚造とは、熊野社のような小規模な社殿の建築様式で、ご神体を安置する、あるいは人が立ち入る部屋や階段を設けず、店舗の商品陳列用の棚(見世棚)のような形にしてある建築様式のことを言います。

熊野社が建つ敷地の右側には春日造の主な特徴を備えた霊魂社がありますので、比較してみてください。

熊野社の場所

熊野社は、伏見稲荷大社の大鳥居がある表参道から楼門へ向かうと、楼門の手前(儀式殿前)にあります。

同じ敷地内に熊野社、藤尾社霊魂社の3社が並び、熊野社は向かって左側に位置しています。

 

熊野社への入口は、楼門の手前左側にあります。
向かって左から、熊野社、藤尾社、霊魂社です。
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