【刀剣由来】御劔社(稲荷山 長者社神蹟)の歴史(三条宗近&小狐丸or宮本包則)

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伏見稲荷大社「御劔社(長者社神蹟)」

伏見稲荷大社「御劔社」長者社

御祭神

  • 加茂玉依姫
例祭

大山祭(1月5日)
火焚祭(11月6日/13時より)

御劔社の読み方

御劔社は「みつるぎしゃ」と読む。

御劔社の別名

御劔社は別名で「長者社(ちょうじゃしゃ)」とも呼ばれる。

御祭神・加茂玉依姫(賀茂玉依姫)

長者社の祭神は加茂玉依姫(かもたまよりひめ)と呼ぶ。

加茂玉依姫 ⬆️醤油煎餅を食べまくり後にゲップをカマすとゲロが出て、その時の激臭具合&胃液混じりの醤油煎餅のショっぱさ具合ほど噂の‥‥「加茂玉依姫坐像」 長っ




加茂玉依姫が長者社(御剣社)にて奉祀される理由とは?

加茂玉依姫は神名の”加茂”からも推定できるように元来、加茂氏(賀茂氏)の出自とされ、伏見稲荷社を創建した秦氏との関係を見出せない。

すなわち、加茂玉依姫が長者社にて奉祀される理由は実のところ判然としなぅい。

ただ、秦氏が稲荷神を創祀する以前の稲荷山を含めた深草郷(深草の地)は、紀氏(きし)系の氏族である大三輪氏(おおみわうじ)、または三輪氏(みわうじ)などの三輪系氏族、もしくは賀茂氏系(加茂・鴨・加毛)などの古代有力氏族の領有地だったとされる。

だとすればこの御劔社は、元来、当地の山神であり、紀氏が信仰を寄せていた神であることは想像に難く無い。

とりわけ、近隣にある藤森神社は元来、稲荷山地域の産土神(うぶすながみ)とされ、藤森の神は紀氏や賀茂氏が信奉した神祇とされる。

現在、藤森神社の祭礼にて「土地を返せ」といわんばかりに稲荷大社境内(表参道の藤尾社)へ神輿渡御するのは往時の名残りとされ、一説に藤尾社のあたりにかつての藤森社が建っていたという説もある。

加茂玉依姫は巫女さんの祖先神でもある

加茂玉依姫は巫女💋の祖先神とされるが、「玉依姫」の「玉」とは金タ‥の方ではなく、神霊・神魂!!を意味し、ふぅ  「依」とは「神の依り代」といぅ意味があるとし、神の依り代である巫女となる女性を示すとも云われる。

とりわけ、玉依姫は伝承される神話を根拠とした水神としての神格を併せ持った神でもあ〜る。

「長者社」の名前の由来とは?

御劔社は別名、「長者社(ちょうじゃしゃ)」とも呼ばれているが、当社は伏見稲荷大社を創建した秦氏の祖先を奉祀した社となる。

「長者社」の名前の由来は、秦氏の祖先である「秦伊侶具(はたのいろぐ)」が長者であったために、この名前が付されたらしい。

「御劔社」の名前の由来とは?

「長者社」の別名である「御劔社(みつるぎしゃ)」の名前の由来とは、「劔(剣=刀)」から来ており、後述する故事に基づいたもの。

御劔社(長者社)の歴史・由来

秦氏は渡来系(始皇帝・秦)の血族とされており、その一族は聖徳太子の参謀として有名な「秦河勝(はた の かわかつ)」を中心として280年頃に百済(朝鮮半島)から日本へ渡ってきた一族と伝わる。

後に秦氏は、大陸の文化を日本へ伝え、それと引き換えに社会的地位を得て政権を掌握する。

政権掌握後さらに勢力圏を拡大し、京都洛北の太秦や嵐山、他に現在の九州・大分県のあたりに「秦王国」なる国を築きあげ、日本においての一大勢力を築きあげます。

その秦氏の中心人物であった秦河勝は、法隆寺の創建はもとより、伊勢神宮の創建にも関与した人物として目される。

なお、伏見稲荷大社と関わりの深い荷田氏は秦氏を出自とする氏族であり、全国津々浦々、苗字は様々だが、現在でも荷田氏の血族が日本中に数多に存在す〜る。




御劔社の「劔石」と「雷石」

「劔石」の名前の由来

御劔社の後には古来、「劔石(つるぎいし)」と呼ばれる大巌(大石)がある。

「劔石」の名前の由来は、この大石の形が剣のように尖っていることに因むもの。 

⬆️エロ動画視聴後のモッコリ状の”ピィ〜”にも見える

この石は別名「雷石」とも呼ばれ、その高さは3m近くもある巨大な石となる。

御劔社の前には案内板が設置されており、その案内板にはこの石を「御神蹟(ごしんせき)」と表記する。

御神蹟とは、神話の時代よりの神の依り代(憑代)のこと。

伏見稲荷大社後方の稲荷山には、このような神蹟が全部で七つ存在す〜る

劔石が「雷石」と呼ばれる理由

その昔、神々が誘起して雷をこの石へ落とさせ、結界(注連縄)を張って封じ込めたそうな。

このような理由から古来、この大石は「雷石」と呼ばれ〜る。

しクぁし!

他説によると、御劔社の社殿内部にももう一つ劔石があって、今尚、奉斎されているらしい。

つまり、この伝承が正しいのであれば「雷石」と「劔石」の二つの石コロが存在することにな〜る。

  • 「雷石」が背後の大石(大巌)
  • 劔石」が御劔社の中で祀られている石

「名刀・小狐丸」の誕生秘話

これは西暦1000年頃(平安時代)のお話‥。

当代の天皇である一条帝は、ある日の夜、夢枕に稲荷大神が立ち、次のような神託を授かったそぅな。

三条小鍛治宗近に名刀・小狐丸を打たせよ❤️

翌朝目覚めた一条帝は、すぐさま勅使を三条小鍛治宗近のもとへ下向させ、昨晩の夢告のことを告げた。

あくる朝、三条小鍛治宗近は”地震”が起きても揺らぐこなく、”自信”を持つほどに”自身”の氏神でもあった伏見稲荷大社(稲荷大神)へ社参したが、その道すがら、一匹‥ではなく、一人の童(わらべ)と出会った。

その小生意気なクソガ‥ではなく、童!!は出会い頭に宗近にこのように告げた。

『その相槌(あいづち/刀を鍛える時の相方のこと)役は私が引き受けましょう』

『貴方様(宗近)は剣を鍛える準備を整え、この場所にてお待ちを。』

それだけ告げると童は山奥へスぅ〜と消えていった。時に1014年(長和3年/平安時代)のこと。

三条小鍛治宗近と小狐丸

三条小鍛治宗近はクソガ、‥‥コホンっ。

童!!‥‥から言われたとおり、まずは剣を打つための祭壇を稲荷山に設けた。

さらに剣を打つための「土」は稲荷山で産出される粘土状の「埴土(はにつち)」、剣を鍛えるための御水は御劔社から湧き出ていた神聖な霊水とした。

宗近が剣を打つ準備を調整し終える頃、鬱蒼と木々が生い茂る山中より先ほどの童が時を見計らったかのように出現し、二人はさっそく剣を打ち始めるのだった。

打ち始めてからしばらく経った頃、剣は見事に完成し、宗近は「童」と「稲荷神」への感謝の意を表し、この剣に「小狐丸(こぎつねまる)」と名付けた。(狐🦊コンっは稲荷神の神使❤️)

ほどなくして再び勅使が宗近のもとへやって来て、宗近が「この剣は五穀豊穣と国家鎮守を守護する神剣になるはずです」と告げると、勅使は深々と黙礼の後、稲荷山を下って行った。

その後、一条帝の手に渡った小狐丸は、以来、皇家の宝刀として御所にて大切に安置され、代々の天皇へ受け継がれたと伝わる。

謡曲・「小鍛治」

三条小鍛治宗近が神剣を鍛えた話は、瞬く間に世間の話題となったが、時代が下ると「小鍛治(こかじ)」と呼ばれる謡曲・切能の傑作へと生まれ変わり、稲荷神の神徳を混じえた美談として語り継がれる。

ところで‥‥童の正体とは?

気になるのは宗近が剣を鍛えることを知っていた宗近の相槌を務めた童の存在💕

まさに神秘に満ちた怪異ともいえる存在だが、その正体は一条帝の夢枕に顕出した稲荷神の神使たる白狐だったとされ〜る。

つまり、稲荷大神の神使たる白狐が童に化け、宗近の相方を務めていたことにな〜る。

だとすれば神剣を世にもたらしたのは、稲荷大神の神意だった‥‥のか?




「焼刃の水」と呼ばれる不思議な井戸

白狐が変化した童と三条小鍛治宗近が剣を打った場所は、当社(御劔社)付近と伝わる。

「剣を打つ」とは「剣を鍛える」とも言われるが、神剣を鍛えるには神の霊力によって清められた「霊水」が必要不可欠💘

その霊水が湧き出していた場所とされるのが、現在の御劔社の井戸であり、この井戸水を用いて剣を鍛えたことから、後世、この井戸水は「焼刃の水(やいばのみず)」と呼ばれるようになる。

御劔社の井戸は未だ水が湧く!

御劔社の井戸には現在進行形で水が湧き出し、それを証明するかのように井ゲタ(井戸縁)には、柄杓まで置かれてい‥‥申す。イゲぅえっ(”井ゲタ”を表現)

なお、当井戸の湧出量は少なぃらしく、水元まで柄杓が届かないこともあり得る。(実際に試したことが無いのでなんとも言えない)

三条小鍛治宗近は当時ドコに住んでいた?

三条小鍛治宗近は一条帝の神剣を鍛えた当時、伏見稲荷社から清水寺方面へ北上した先に位置する「三条粟田口」と呼ばれる地に居住していたと云われ、当該、宗近の居宅にて神剣が生み出されたという説もある。

だとすれば、既述の伝承とは符合しないが、そもそも一条帝御代の年紀を有する作刀は見つかっておらず、俗説のたぐい、乃至は、捏造された創作話である可能性も捨てきれなぅい

🦊三条粟田口の詳しい場所(地図)

三条粟田口は清水寺の5キロほど北側に位置す〜る。

どうやら往古より粟田口周域には刀工が居住していたらしく、現在の当地にはそれを傍証するかのごとく、作金者(かなだくみ/鍛治)の祖神を奉祀する粟田神社が建つ。

⬆️工場敷地内で屁をこきまくっても機械音でかきけされてバレにくい定説ほど噂の‥「三条粟田口(現・京都市東山区粟田口三条坊町)」 もぅコキ放題食べ放題💋  ..食べ放題?どゆ意味や あんま調子のんな

名刀・小狐丸は実在するのか?その後どぅなった?

名刀・小狐丸

一条帝の所有していた宝刀・小狐丸は既述のように奇譚じみた俗説によって世に生み出されたわけだグぁ、実在する刀剣でもある。

しクぁしながら、星霜経ながら行方が分からなくなり、実のところ現在、「名刀・小狐丸」と名付く銘刀は以下、二振り(2本)存在す〜る。

🦊一本は「石神神宮(奈良県天理市)

🦊一本は「石切剣箭神社(大阪府東大阪市)

このうち、いずれが本物なのか?もしくは二振りとも別物なのか?

‥‥などの事実関係は現今に到っても未詳とされる。

御劔社(長者社)の石灯籠と狛犬像は稲荷山内最古の遺物?

御劔社(長者社)の社頭まで来ると「石灯籠(いしとうろう)」があるのに気づくが、この石灯籠の竿部分には「寛政六年(1794年)」の刻銘があり、これは稲荷山最古の遺物となるらしい。

ちなみに石灯籠の近くの狛犬像(石造)には「文久三年(1863年)」の刻銘があり、いずれも江戸時代の創作物となる。

清少納言が苦しさのあまり膝をついた坂

かの有名な清少納言がこの稲荷山へ詣でた際、折しもこの長者社神蹟(御剱社)から一ノ峰に向かう途上の坂道にて、息途切れて苦しさのあまり膝をつき、立ち上がるまでに苦労したらしい。

詳細は下記ページを要チェック💘




長者者(御劔社)の場所(地図)

長者者(御劔社)は、一の峰と御膳谷奉拝所の間に位置する。

  • 本殿から御劔社(長者社神蹟)まで徒歩約60分(1時間)
  • 千本鳥居から徒歩約55分

名工・宮本包則も稲荷大社に参籠し刀を鍛えた

明治時代〜大正時代にかけての名工と謳われた伯耆国(ほうき/鳥取)の名工・宮本包則(みやもとかねのり)も、明治元年に稲荷大社へ参籠し、刀を鍛えたそうな。

1868年(明治元年)正月、包則は官軍東征の刀工として従軍し、その後、皇太后宮大夫の三条西季知(さんじょうにし すえとも)より佩刀(はいとう/サーベル型の刀)の作刀を命じられた。

包則は、三条小鍛冶宗近が稲荷大神の助力を得て、名刀・小狐丸を鍛えあげた先例にならい、斎戒沐浴の上、伏見稲荷大社に仮居を設けて130日あまり参篭することになる。

その折、戊辰戦争における官軍勝利を祈念し、稲荷山・御剱社脇に湧出する焼刃の水を用いて刀を鍛えたのだった。

包則の鍛刀した刀は「稲荷打」「稲荷山剱石打」などと呼ばれ、五振りが作刀されたが、うち二振りは稲荷大社へ奉納されることになる。

星霜経て1915年(大正四年)になると、大正天皇より自らが帯刀する刀(大元帥刀)の作刀を命じられていることから、稲荷山で刀を鍛えたことで運が開けたともいえる。

なお、稲荷大社には名工・宮本包則が作刀した事実を示す石碑が拝殿右側後方に建てられてい‥‥申す。ひほっ

伏見稲荷大社には宮本包則の名刀が所蔵される

宮本包則が打った刀には、ほとんど「包則」の刻銘があり、伏見稲荷大社には「鎮国神器 伯耆国 大柿 宮本 能登守 菅原朝臣 包則 明治元年十月八日 奉 稲荷社 納 稲荷神山 剣石 百日参籠シテ謹鍛之」の銘をもつ太刀が現存す〜る。

⬆️ウンコをしながらフリーダイヤルに電話していたところ、けつ穴から生み出された個体(ブツ)が便器に落ちるチャプン♪の音が相手にバレてクス笑されまくって即切りしたくなった心境ほど噂の‥‥「宮本包則が打った刃」

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