京都・伏見稲荷大社のご利益は「五穀豊穣」のみだった?!
この伏見稲荷大社は当初、「五穀豊穣の神様」として崇敬が寄せられていました。
しかし現在に至っては、「五穀豊穣の神様」以外にも、以下のようなご利益があるとされ、全国的に有名になっています。
- 「商売繁昌(しょうばいはんじょう)」
- 「家内安全(かないあんぜん)」
伏見稲荷大社が「商売繁昌」や「家内安全」のご利益を得た本当の理由
伏見稲荷大社が、「商売繁昌」や「家内安全」のご利益を得た理由は、伏見稲荷大社と縁深い弘法大師・空海という人物自体が「商売繁昌」や「家内安全」のご利益があると信仰あれていたためです。
この理由の詳細は以下のような話になります。
弘法大師・空海と東寺の興り
弘法大師・空海が遣唐使(けんとうし)として、中国・唐へ最澄(さいちょう)らと共に日本を出国した話は有名です。
中国へ渡った空海は密教の総大将「恵果(けいか)」と面会を果たし、弟子入りして修行することになります。
修行を終えた空海は、恵果から自らの後継者に任ぜられ、密教の奥義を授けられます。
すなわち全世界の密教の総大将となったわけです。
後に空海は高野山へ入り、現在の壇上伽藍(だんじょうがらん)や金剛峯寺(こんごうぶじ)を創始します。
ただし、すぐに高野山を開創したのではなく、唐から日本へ帰国した後、数年は天皇や朝廷から依頼された仕事に従事することになります。
その一環として、国内の治水工事や土木工事、はたまた、寺院の造営などの仕事もこなすことになります。
これらの仕事を順調にこなす空海を天皇や朝廷は頼もしく思い、特に嵯峨天皇からは絶大な信任を得ることになります。
そして827年、空海50歳の時、嵯峨天皇は朝廷(国家)で管理していた京都・東寺(とうじ)を、独断で空海に与えることになります。
空海は下賜された東寺を自らの手で再建・改修することになりますが、「とある理由」で稲荷山(伏見稲荷大社)を訪れることとなります。
空海が伏見稲荷大社へ訪れた理由
空海が稲荷山(現・伏見稲荷大社)へ訪れた理由は、上述したように東寺の伽藍(境内)再建や五重塔造営に際して大量の材木が必要となったためです。
空海は自らの布教活動の中心地に東寺を据えるため、堂舎の造営や再建(改修)が急務でした。
そこで空海は天皇の許可を得て、稲荷山に生い茂る木々を伐採し、伽藍再建の材料と定めます。
その後、上述したように老翁(稲荷大神)を稲荷山に祀り、さらに例祭を定めて神輿に御神体(稲荷大神の御霊)を乗せて担ぎ出し、街中を巡幸することも約束します。

要するに空海の個人の所有となった元・官寺(かんじ)です。
空海によって”超”が付くほど有名になった伏見稲荷大社
当時の空海は、国民に大変な人気がありました。人気の理由は、空海が国の様々な土木事業に従事し改革していたからです。
その他、真言宗の布教活動を行い、人々の内面(心)も救済していたことも理由に挙げられます。
そんな国民的人気を誇る空海が伏見稲荷大社に鎮座する「稲荷大神」を、東寺だけではなく、自らの宗派「真言宗」の守護神と定めたことは大きなスクープとなりました。
このことは天皇の耳に入り、そして次第に国民へと広まって行きます。
その後、天皇が直々に稲荷大神へ参拝するために伏見稲荷大社へと行幸(ぎょうこう/足を運ぶこと)することになりますが、そのウワサは瞬く間に庶民層へ広がり、「天皇もお参りするほどの崇高な社である」と評されて、やがて日本国民すべてに「稲荷大神」の名前が知れ渡っていくことにな流のです。ワッハ
伏見稲荷大社が商売繁盛、国家安泰のご利益がある理由
以上のように、民衆はやがて空海自体に「国家安泰」「商売繁盛」や「家内安全」「諸願成就」といったご利益があると信じるようになっていきます。
このようなご利益を持つ空海と、守護神として尊崇の念を集める稲荷大神が持つ「五穀豊穣のご利益」が徐々に習合していくことになります。
こうして現在のように「五穀豊穣」の他、「国家安泰」「商売繁盛」や「家内安全」「諸願成就」などのご利益もあるとされるようになっているのです。
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