京都・伏見稲荷大社「荷田社」【重要文化財】
創建年
- 1176年(安元2年/平安時代)
再建年
- 1694年(元禄7年/江戸時代)
建築様式(造り)
- 一間社流れ造り
- 見世棚造り
- 平入り
屋根の造り
- 檜皮葺(ひわだぶき/ヒノキ)
御祭神
- 荷田氏の祖先
社格
- 伏見稲荷大社・末社
例祭
- 12月13日午前11時
「荷田社」の読み方
「荷田」と書いて「にた」と読みそうになりますが、正式には「かだ」と読みます。
「荷田」の意味
荷田とは、伏見稲荷大社に奉仕した社家(神官一族)の「荷田」氏のことです。
伏見稲荷大社は秦氏一族である秦伊侶具(はたのいろぐ)が創建したと伝えられていますが、以降、代々、秦氏の血族が宮司(神主)を世襲しています。
この荷田氏も秦氏の氏族と云われるが、荷田宿禰(雄略帝の子孫)の子孫とも云われる。
永遠の”有給”をうらやむが如くに、”悠久”とも呼べる稲荷大社の歴史の変遷をみていくと、秦氏と荷田氏とで神社の支配権や地位をめぐる諍いがあった模様。
後年、羽倉氏が荷田氏を冒称し、以後は羽倉氏が社家筆頭となり、明治初頭まで宮司職を世襲。
おそらく明治維新直後の神仏分離令や廃仏毀釈によって稲荷大社境内の仏教色が一掃され、その影響で羽倉氏も社家筆頭の座から引きづり降ろされたとみる。
伏見稲荷大社「荷田社」の歴史・由緒
この荷田社は、1176年(安元2年)に荷田氏の祖先である荷田荷大夫(荷田大夫)の没後に営まれた社殿になります。
つまり荷田荷大夫(荷田大夫)を祀る社殿とも受け取れますが、現在に至っては代々の荷田氏を祀っているとのこと。
つまり、荷田氏の祖霊社でもあり、伏見稲荷大社の祖霊社の一つでもあります。
伏見稲荷大社に関連した数少ない文献によれば『一一七六年、稲荷山の命婦社の南に社を築き、荷大夫の霊魂を祀る』と伝えらえているようです。
伏見稲荷大社に伝わる応仁の乱後に著された1499年編纂の「明応遷宮記録」によれば『命婦の南には荷大夫明神在之云々』との記述が残され、これはつまり、1499年(明応8年)には稲荷山の命婦社の南に鎮座していたことになります。
荷田社が現在の場所に鎮座したのは不明とされていますが、1589年(天正17年/安土桃山時代)に太閤秀吉が現在の本殿や諸殿が並び立つ麓の宮域の拡張および楼門を造営していますが、併せてこの荷田社も遷宮と言う形で社殿が新たに現在の場所に造営されたとも考えることができます。
そしてその後、1694年(元禄7年/江戸時代)に江戸幕府(将軍・綱吉)よって社殿が大改修されたと言うことになります。
ちなみにこの荷田社は、隣り合う以下の3社とともに「上末社(かみまっしゃ)」と呼ばれています。
伏見稲荷大社「荷田社」の建築様式(造り)
荷田社の社殿は伏見稲荷大社境内の他の社殿とは異なり、平入りの見世棚造りという技法が用いられた社殿になります。
見世棚造りとは、本殿の殿の部分の前方に階段を附属せず、井桁状に組んだ台を据えた造りのことを言います。この台の部分が商品を陳列するときの見世棚(みせだな)に似ていることから見世棚造りと呼ばれています。
見世棚造りは、荷田社のような覆屋風の小さなミニ社殿に用いられることが多いのですが、春日造りを簡略化した造りだと位置付けることができ、造り自体は単純なれど、神社建築の起源を示す造りだとも云われます。
荷田氏とは?
荷田氏は、国学者の荷田春満が有名であり、現在も伏見稲荷大社境内に位置する「東丸神社」で主祭神として祭祀されていますが、当初は稲荷社に僕として奉仕した、祈祷師的存在だったと云われる。
稲荷社に取り入った荷田氏はやがて稲荷社周辺の氏子地域に独自の勢力を広げたと伝わる。
また、後裔の荷田延行は藤森社の木造狛犬像を修理するなど、藤森社の社家とも深い関係があったことになる。
ただ残念無念ながら荷田氏は鎌倉末期頃から元弘、建武の動乱期に歴史上から姿を消す。
羽倉姓荷田氏の台頭
羽倉氏は稲荷社領・備後国抗庄(広島県久井町字)の代官職を代々世襲した小早川氏の下に仕えていたらしく、1400年頃になって稲荷社へ入職した。
稲荷社の神官となった羽倉氏は祀官に列するべく「荷田氏」を仮冒(勝手に名乗る)し、以後は荷田氏として稲荷社内において確固たる地位を築き、社家に名を連ねた。
以後、管領家の細川氏と関係を結んで中央政界へと進出し、稲荷社の舵取りをしていく。
現在、東丸神社にて奉斎される荷田春満の存在がそれを傍証する。
東丸神社の祭神・荷田春満の父は伏見稲荷神社(現在の伏見稲荷大社)の社家・御殿預職の羽倉信詮(はくら のぶあき)とされ、母は細川忠興の家臣・深尾氏の娘・貝子と伝わる。
荷田氏の流祖
荷田氏のルーツ(起源)は「荷田龍頭太(りゅうとうた)」という人物になるらしいが、これについては諸説ある。(後述)
名前の「龍頭太」の由来は、龍のような面貌、頭上に周囲を昼間のように明るく照らす光のようなもの有り‥‥と記されることから「龍頭太」と付されたようです。
なお、安藤希章の「神殿大観」には稲荷大社の歴代神主を次のように記す。
歴代 | 名 | 生没年 | 在職年 | 略歴 |
---|---|---|---|---|
1 | 荷田殷 | 雄略天皇皇子の磐城王の末裔(伝)。稲荷山の地主とされ、711年(和銅四年)の稲荷社鎮座後、祠官となって奉職す。後に荷田社祭神と祀られる。 | ||
2 | 荷田嗣 | 天平年間。後に荷田社祭神と祀られる。 | ||
3 | 荷田早 | 延暦年間。後に荷田社祭神と祀られる。 | ||
4 | 荷田龍 | 弘仁年間。荷田大夫(荷田太夫)と称する。俗称:龍頭太。817年(弘仁八年)に12月13日死去(伝)。後に荷田社祭神と祀られる。 | ||
38 | 羽倉延秀 | ?-1500 | 1485- | (伝)38世。修理亮。1485年(文明十七年)9月に御殿預(明応年間とも)として奉職。1500年(明応九年)8月に死去。 |
神殿大観によると稲荷山の地主であった磐城皇子(いわき の みこ)の末裔とされる荷田殷が、稲荷社創建時より稲荷社の神主として奉職。以後、室町期まで荷田氏が神主を世襲とある。
だグぁ!
正史?‥では、秦氏が創建以後、歴代の神主を世襲、その下位神職には荷田氏がいた。室町期になって新たに奉職(神職になった)した羽倉氏(羽倉延秀?)が荷田氏を冒称し、やがて神主の座に就任。以後は羽倉氏が神主を世襲。‥‥はてさて
伏見稲荷大社の近くに東寺(とうじ)という大師が再建して有名になった寺院がありますが、伏見稲荷大社の例大祭である「稲荷祭」の際、神輿が東寺へ入って祈祷する儀式が古来、踏襲されています。
この理由は、東寺の再建中に稲荷の翁のいう摩訶不思議な人物が大師に会いにきた故事にもとづくものであり、この稲荷の翁という人物こそが稲荷大神だと伝えられているからです。
一説には、この稲荷の翁の正体が上述、龍頭太であるという言い伝えも残されているようです。
伏見稲荷大社には荷田社が2つある??
実はあまり知られていませんが、伏見稲荷大社の境内に荷田社が2つあります。
もう1つは稲荷山山頂付近の間ノ峰(あいのみね)と呼称される場所にあります。
御祭神や社殿の造り、御神体の形状も異なりますが、社殿奥に設置されている石扉には荷田氏の家紋が刻まれていることから、やはり荷田氏に関連した社であると考えられます。
稲荷山の荷田社については以下のページをご覧ください。
関連記事:京都・伏見稲荷大社「荷田社」(稲荷山)
伏見稲荷大社・荷田社の場所(地図)
荷田社は本殿後方の権殿(ごんでん)の近くにあります。向かい見て右側には「長者社」、左側には「両宮社」があり、3つ社殿が並んでいます。
ちょうど千本鳥居へ向かう際に通りますので、千本鳥居へ行かれる前にぜひ!立ち寄っみてください。
- 本殿から荷田社までのの所要時間:約1分
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