京都・伏見稲荷大社「御劔社(長者社神蹟)」
御祭神
- 加茂玉依姫
例祭
火焚祭(11月6日/13時より)
伏見稲荷大社・御劔社の読み方
御劔社の読み方は「みつるぎしゃ」と読みます。
また、御劔社は別名をもっており「長者社」とも呼称されており、読み方を「ちょうじゃしゃ」と読みます。
御祭神・加茂玉依姫(賀茂玉依姫)
長者社の御祭神・加茂玉依姫の読み方は「かもたまよりひめ」と呼称します。

この神様が、なぜ長者社でお祀りされているのは謎です。
加茂玉依姫は、加茂氏(賀茂氏)の出自であり秦氏とは関係がないとされています。
しかし古来、秦氏は畿内や九州を中心に日本中に勢力を誇っており、秦氏に関連のある古文書では、加茂玉依姫が加茂氏族ではあるが、秦氏の娘でもあると言う記述があります。
一説によるとこの神様は「賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ)」、通称「上賀茂神社(かみがもじんじゃ)」の御祭神・賀茂別雷命の母親であることから「火雷神」とも位置づけられています。
ただし、伏見稲荷大社の境内で加茂玉依姫を祀る理由や、この長者社でお祀りする理由は謎です。
加茂玉依姫は、主に巫女さんの祖先神とされており、どちらかと言うと水の神様としての側面を持つ神様です。
ちなみに、「玉依姫」の「たまより」とは「神様の依り代」と言う意味合いがあり、すなわち、神様の依り代となる「巫女」となる女性のことを指します。
京都・伏見稲荷大社「御劔社(長者社)」の歴史・由来
「御劔社」は別名・「長者社(ちょうじゃしゃ)」とも呼ばれています。
長者社は、伏見稲荷大社を創建した秦氏の祖先の霊をお祀りした社です。
長者社の名前の由来とは、秦氏の祖先である「秦伊侶具(はたのいろぐ)」が長者であったために、この名前が付いたとのことです。
秦氏は渡来系(始皇帝・秦)の血族とされており、その一族は聖徳太子の参謀で有名な「秦河勝(はた の かわかつ)」を中心として280年頃に百済(朝鮮半島)から日本へ渡ってきた一族です。
後に秦氏は、大陸の文化を日本へ伝え、地位を得て政権を掌握します。
政権を掌握した後、さらに勢力圏を広げ、現在の九州・大分県のあたりに「秦王国」なる名前の国を築きあげ、日本においての一大勢力を築きあげます。
秦氏の中心人物である秦河勝は、法隆寺の創建はもとより、伊勢神宮の創建にも深く関与した人物とも云われております。
なお、伏見稲荷大社と関わりの深い荷田氏は秦氏の一族であり、現代に至っても苗字は様々ですが、荷田氏の一族が日本中にたくさんいます。
話は戻りますが「長者社」の別名である「御劔社」の名前の由来とは、「劔(剣=刀)」から来ており、以下↓でご紹介するような内容に基づいているものです。
御劔社の「劔石と雷石」
「劔石」の名前の由来
御劔社の後には「劔石(つるぎいし)」と言われる大きな石があります。
「劔石」の名前の由来は、察しがつく通り、石の形が剣のように尖っていることから、「剣(つるぎ)」に似ているからです。
この石は別名「雷石」とも呼ばれ、その高さは3m近くもある巨大な石です。
御劔社の前には案内板が設置されており、その案内板にはこの石を「御神蹟(ごしんせき)」と記載しています。
御神蹟とは、神話の時代から神様がお宿りになっておられる依り代(憑代)のことです。
伏見稲荷大社の稲荷山には、このような御神蹟が全部で7つあります。
劔石が「雷石」と呼ばれる理由
雷石の由来ですが、その昔、神々が雷をこの石へ誘い込んで落とさせて、結界(注連縄)を張り巡らし封じ込めたそうです。
そんなことから「雷石」と呼ばれています。
しかし、もう1つの説があって、目にすることは叶いませんが「御劔社」の社殿の中にも「劔石」がもう1つ存在し、今でもお祀りされているとの説があるようです。
つまり、この説が正しいとするのであれば「雷石」と「劔石」の2つの石が存在することになります。
- 「雷石」が背後の巨石
- 「劔石」が御劔社の中で祀られている石
と、言うことになります。
「三条小鍛治宗近」と「小狐」
西暦1000年頃(平安時代)の天皇である「一条天皇」は、ある日、夢枕にて「三条小鍛治宗近に名刀・小狐丸を打たせよ」と言う御神託(稲荷神からのお告げ)を受けたそうです。
この夢の直後に飛び起き、すぐさま勅使を三条小鍛治宗近のもとへ下向させました。時に1014年(長和3年)のことです。
勅使から勅命を受けた三条小鍛治宗近は御神託のこと聞き、明くる日、昔からの氏神であった「伏見稲荷大社の稲荷大神」へ参拝へ向かいました。
稲荷山へ入った宗近は、途中で1人の「童(わらべ)」と出会うことになります。
その「童」は「三条小鍛治宗近」に出会うなりこう言います。
「相槌(あいづち/刀を鍛える時の相方のこと)は私が務めましょう」
「貴方は剣を打つ用意をして、この場所でお待ちください」
そういって童はスっと姿を消すのです。
1人取り残された三条小鍛治宗近は、童から言われた通り、稲荷山に剣を打つための祭壇を造り剣を打つ準備をします。
剣を打つための「土」はこの稲荷山の粘土のような粘りのある「埴土(はにつち)」、剣を打つための「水」はこの御劔社から湧き出る稲荷山の神聖な霊水を用意しました。
やがて、宗近が剣を打つ準備を終える頃、先ほどの童がスっと現れ、さっそく2人で剣を打ち始めるのです。
しばらく経った後、剣は見事に完成し、宗近は「童」と「狐」の縁を寄り合わせ、剣に「小狐丸(こぎつねまる)」と名付けます。
宗近は「この剣は五穀豊穣と国家鎮守を守護する神の剣となるであろう」と言い、すぐさま勅使を呼び寄せ、その後、この剣は無事に一条天皇のもとへ届けれられ、以後、一条天皇の宝刀として大切に安置されました。・・という話です。
謡曲・「小鍛治」
この話は、瞬く間に世間に広まり、三条小鍛治宗近と「童」との剣を打つ(鍛える)様子を「謡曲」にして読まれたそうです。
こうして「謡曲」を通して「小狐丸」の伝承が現代にまで受け継がてきた言うことです。
ちなみに、この「謡曲」には名前があって「小鍛治(こかじ)」と言うそうです。
そして実は、宗近の相槌を務めた「童」ですが、なんと!本当の姿は稲荷大神の神使である白狐だったそうです。
つまり、稲荷大神の神使の白狐が童に化けて、宗近の相方を務めていたと言うことです。
「焼刃の水」と言う名の「不思議な井戸」
上述の「白狐が変化した童」と「三条小鍛治宗近」が剣を打った場所と言うのが、この「御劔社」であるとされています。
「剣を打つ」とは「剣を鍛える」とも言います。
剣を鍛えるには、神様によって清められた「清水」が必要になります。
その清水が湧き出てていた場所こそが、現在の「御劔社の井戸」であって、この井戸の湧水で剣を鍛えたことから「焼刃の水(やいばのみず)」と呼称されています。
ちなみに御劔社の井戸には今でも水が湧き出ているそうです。(柄杓が置かれていますが、湧き出ている量が少ないので水まで柄杓が届かない場合があります。)
ただ、三条小鍛治宗近の住まいは伏見稲荷大社からは少し離れた「三条粟田口」と呼ばれる場所であり、一説では三条小鍛冶宗近の住まいで剣が鍛えられたとも考えられています。
三条粟田口とは現在の東山区に位置する清水寺の少し北側の知恩院の付近になります。
つまり、史実とは少し話がかみ合わないことから俗説、いわゆる「作り話」とも云われています。

名刀・小狐丸のその後
一条天皇の所持していた「宝刀・小狐丸」ですが、驚くことになんと!!実際に実在した刀だと云われております。
しかし、歴史を経る過程でその行方が分からなくなったようです。
実は現代において「名刀・小狐丸」という刀が、不思議なことに2刀も現存しています。
そのうちの1つは「石神神宮(奈良県天理市)」に、もう1つは「石切剣箭神社(大阪府東大阪市)」に安置されています。
しかし、いずれが本物なのか?もしくは2刀とも違うのか?・・などはいっさい不明のようです。
【補足】御劔社(長者社)の「石灯籠と狛犬の像」
御劔社(長者社)の社殿の前まで来ると「石灯籠(いしとうろう)」があるのに気づきます。
この石灯籠は、なんと!稲荷山内で現存する「最古の石造品」として云われています。
最古の理由とは、石灯籠をよく見ると「寛政六年(1794年)」と言う文字が彫られており、他にも石灯籠の近くにある「石造りの狛犬の像」には「文久三年(1863年)」と刻まれています。
もし、御劔社(長者社)へ訪れる機会があれば、是非、石灯籠も注意深くご覧になってみてください。
長者者(御劔社)の場所(地図)
長者者(御劔社)は、一の峰と御膳谷奉拝所の間に位置します。
- 本殿から御劔社(長者社神蹟)まで徒歩約60分(1時間)
- 千本鳥居から徒歩約55分
清少納言が苦しさのあまり膝をついた坂
話は逸れますが、なんんでもかの有名な清少納言がこの稲荷山へ詣でた際、ちょうどこの長者社神蹟(御剱社)から一の峰に向かう途中の坂道で息が途切れて苦しさのあまり、膝をついたそうです。
それもなんとなく納得ができます。何を隠そう、この長者社から一の峰の間には急勾配な石階段があるからです。
その様子は吉田広重作「伏見稲荷全境内名所図絵(1925年)」においても、長い石階段があるのが際立って描かれています。
長者社から一の峰へ向けて登って来られる際は、十分に御覚悟ください。
ちなみに私的な見解ですが、稲荷山は四つ辻から右回りの方で登る方が比較的、身体に負担は少ないように思います。
終わりに・・
明治時代〜大正時代にかけての名工と謳われた伯耆(ほうき)の国の名工・宮本包則(みやもとかねのり)が明治元年に稲荷山山中にて参籠し、刀を打ったそうです。その名工・宮本包則が刀を打ったことを証明する石碑が拝殿右側後方に立っています。
稲荷山で刀を打った後の1915年(大正4年)には大正天皇より、自らが帯刀する刀(大元帥刀)の作刀を命じられていることから稲荷山で刀を打ったことにより、運が開けたとも例えられます。
ちなみに宮本包則が打った刀には、ほとんど「包則」の刻銘があります。
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