京都・伏見稲荷大社「御旅所(おたびしょ)」【旧・八条二階堂屋敷跡】
創建年
不明
推定:1167年(仁安2年/平安時代)以前
1973年(昭和48年)※神輿奉安所
設計者
- 株式会社馬庭建設事務所
施工者
- 株式会社北村工務店
工事期間
- 約7ヶ月
発願者
- 伏見稲荷大社
例祭
- 4月20日最寄りの日曜日/11時:稲荷祭(神幸祭)
- 5月3日14時(稲荷祭)
- 11月10日15時(火焚祭)
項・一覧
京都・伏見稲荷大社「御旅所」の読み方
伏見稲荷大社「御旅所」の読み方は「おたびしょ」と読みます。
京都・伏見稲荷大社「御旅所」の歴史・由来
実は伏見稲荷大社の「御旅所」は伏見稲荷大社の境内から少し離れた場所にあります。伏見稲荷大社からですと、距離にして約3.3Km、所要時間にして徒歩で約40分ほどかかります。
場所は、京都駅から徒歩約5分ほどの距離の場所です。その他、周辺には「東寺(教王護国寺/きょうおうごこくじ)」があります。
かつては「坊門猪熊(ぼうもんいのくま(現・京都市下京区)」と「七条油小路(現・京都市下京区)」という2つの場所に建てられており、それぞれ以下のような3社が存在していました。
- 中社・上社(八条坊門猪熊)
- 下社(七条油小路)
こののち鎌倉時代後期に編纂されたとされる「百錬抄(ひゃくれんしょう)」の記述によれば、1226年2月13日(嘉禄2年/鎌倉時代)に坊門猪熊の御旅所が焼失した旨の記述が見られ、この後、年は不明ですが再建されています。
一方、平安末期から鎌倉初期にかけて中山忠親が著したとされる「山槐記(さんかいき)」の記述によれば、1167年(仁安2年/平安時代)4月23日、七条油小路の御旅所へ「鳥羽上皇」と「藤原顕長」が行幸している様子が集録されていることから、平安時代からすでに存在していたことになります。
安土桃山時代(1573年〜1592年)には太閤秀吉による太閤検地によって、かつて「八条二階堂屋敷」があった場所(現在の場所)に移されることになり、この屋敷こそが弘法大師・空海とも縁の深い「柴守長者」が住んでいたとされる場所です。
なお、旧地では「古御旅所」と呼ばれていたそうで、その証拠に現在でも地名に「御旅町(旧西九条村、南区古御旅町)」として残されています。
1973年(昭和48年)には神輿奉安所が建立され今日に至ります。
【補足】柴守長者の話
「柴守長者(しばもりちょうじゃ)」とは、早い話が後述する「老翁」すなわち「稲荷翁=稲荷大神」のことです。実は大師は東寺を再建する前に、然る不思議な老人(つまり後の稲荷大神)と4回出会っています。
1回目
初めて(1回目)老翁に出会ったのが弘法大師・空海が中国・唐で修行中のときです。このとき老人は「いずれまたお目にかかる日が来るじゃろぅ・・ふぉっふぉっふぉっ..フぉーーー!!!」などと告げて去るのです。
2回目
2回目は日本に帰った弘法大師・空海が九州筑紫で修行をしていたときのことです。このときも老翁は「我は仏法を守護する者」「京都に居処する”柴守長者”と申す」と告げ、「いずれまた会うときが来るじゃろぅ・・ふぉっふぉっ..ゴホっゴホっ・・(フぉーーはヤメておくか。)」などと告げて去っていきます。
3回目
3回目は816年のこと、今度は紀州田辺で大師が修行をしていると再び老翁が現れて「我は仏法の隆盛に尽力する者」と告げ、去っていきます。
4回目
そして4回目は823年、空海が東寺を再建するために稲荷山の木をまさに今切り出そうとしていた矢先に、東寺の南門から老翁が現れるのです。空海は老翁が来ることを悟っていたかのように「コチラにひとときの住まいを用意しています」と告げたその場所こそが、なんとぉぅっ!「2回目に会った”柴守長者の屋敷”」だったというワケです。
すなわち老翁は大師が稲荷山の木をいずれ伐採することを悟っており、さらに空海は4回目を迎えるまでには相手が誰なのかを知っていたということです。
現在の御旅所は「八条二階堂屋敷(柴守長者の屋敷)」が前身!
現在の御旅所は平安時代に「二階堂屋敷」と呼ばれる屋敷が建てられいたと伝えらえています。この事実は高野山大学図書館が所蔵する1332年(正慶元年/室町時代)に編纂された「稲荷記」の内容によれば次のような記述が見られます。
『梅の小路猪熊の御旅所の大行事職は、柴守長者の子孫である薩摩守・良峯に譲与する』
この記述によれば現在の御旅所における大行事を取り仕切るのは、柴守長者の子孫である「薩摩守良峯」という人物に委ねたとされています。
すなわち、現在の御旅所は平安時代から存在したことを証明する記述だと捉えることができます。
そしてさらになんと!この二階堂にはかつて稲荷社があったとされ、その稲荷社が現存していると言えば驚かれますでしょうか?
ところで・・「二階堂」とは?
二階堂とは、現在の御旅所の場所のことを示しますが、これだけでは合点が行きません。その理由は現在の住所地を見れば分かることです。
「京都府京都市南区西九条池ノ内町98」
現在の住所地には「二階堂」なる文字は1つも見当たらず、現在の京都の二階堂といえば「京都府八幡市」が思いつきます。しかし京都府八幡市はこの御旅所から車で約20分もの距離です。
しかしなんと!”二階堂”を示す場所がこの御旅所近くにあったとすればその信憑性は高まります。実はその場所が実際に存在し、その場所の名前を「善能寺(ぜんのうじ)」といいます。
京都・善能寺と「最初に建てられた稲荷神社」
京都・善能寺は弘法大師・空海が823年(弘仁14年)に創建したとされる寺院であり、当初は北猪熊(現在の下京区)にあったとされる寺院です。さらに驚くことになんと!当初は「聖観音菩薩立像」を御本尊として「二階堂」と称していたようです。
そして文献にも見られるようにかつて”二階堂”と呼ばれていた事実を証拠を示すかのごとく、境内には2社の稲荷社が鎮座しており、その片方が弘法大師・空海その人が建てたとされる稲荷社が現存しています。そしてさらになんと!この稲荷こそ「日本で最初に建てられた稲荷」として伝承されているようです。
すなわち文献の記述が示す「八条二階堂屋敷」や「柴守長者」などの記述が、より信ぴょう性を帯びるということです。
京都・伏見稲荷大社「御旅所」の役割り
「御旅所」と言うのは、何も伏見稲荷大社だけにあるのではなく、日本全国のわりと規模の大きい神社であればあります。例を挙げれば奈良県・春日大社にも御旅所があります。
御旅所の役割りは、主に大きな祭事(お祭り)でのお神輿が出発する場所であり、神様の神霊をお神輿の中へ奉安するなどの準備を整え待機させる場所でもあります。
伏見稲荷大社のお祭りでお神輿が出てくるお祭りと言えば「稲荷祭」です。
稲荷祭では、稲荷祭の中の祭事である「神幸祭(しんこうさい)」「氏子祭(うじこさい)」と「還幸祭(かんこうさい)」と共にお神輿(神様)の巡幸があり、御旅所が利用されます。
伏見稲荷大社・御旅所の見どころ
御旅所の期間限定の御朱印
この御旅所には期間限定で御旅所オリジナルの御朱印が授与されます。その期間となるのが、後述する「稲荷祭」の期間中です。
- 授与場所:伏見稲荷大社・御旅所の境内社務所
- 授与期間:神幸祭の日(4月20日最近の日曜日)~還幸祭の日(5月3日)
- 授与時間:8時30分頃〜16時30分頃
- 初穂料(値段):300円
期間中の御旅所の社務所窓口は、概ね上記の時間で営業されています。
もし御朱印の授与希望で上記時間外に訪れる場合は、伏見稲荷大社の方へ電話して確認してみてください。
- 電話番号:075-641-7331(伏見稲荷大社・社務所)
社務所の詳しい場所
社務所の場所は奉安殿を向かい見て一番左端になります。
奉安殿は目立つので社務所の場所に迷うということはまず、ありません。平常時は閉まっていますので、ご注意ください。
「特殊なお神輿の巡幸」
伏見稲荷大社のお神輿の巡幸は、私たちが知るお神輿の巡幸とは違います。
伏見稲荷大社のお神輿は人の手でワッショイ!ワッショイ!と担ぐだけではなく、なんと!大型トラックでも巡幸します。
つまり、トラックの荷台にお神輿を担いで乗せて御旅所まで運びます。
そして、お神輿をトラックの載せたまま、再び伏見稲荷大社まで巡幸します。
トラックの数も驚くことになんと!大型トラックが数十台と言う京都一、いや日本一のトラックを用いたパレードです。
実は、トラックを使用するのにも理由があり、現在の伏見稲荷大社の境内の周辺付近は、京都・藤森神社の巡幸する地域(氏子地域/その神社の地域に住む住民のこと)とされています。
伏見稲荷大社の巡幸地域は、少し離れた上述の京都駅と東寺の付近の御旅所を起点とした地域になります。
したがって、御旅所まで神輿を移動しなければならず、やむを得ずトラック巡幸と言う形式となっています。
ただ、室町期や平安期には神輿を300人以上もの人数で担ぎ上げて巡幸したそうです。
奉安殿(ほうあんでん)
奉安殿は御旅所のメインとなる建物です。上述、稲荷祭の時に使用される5基の神輿が安置されています。
現在の稲荷祭では上掲の写真のようにトラックに神輿が乗せられる形式で付近の氏子町を渡御します。
奉安殿を向かい見て左端が社務所。社務所ではお守りのほか、御朱印を授与されています。
台車庫(だいしゃこ)
黒色のシャッターと2層目の虫籠窓(むしこまど)が目を惹く、奉安殿に次ぐほどの大きな建物です。シャッターが閉じられていて中の様子は一切分かりませんが、シャッターの奥には5基の御神輿を載せるための台が収納されています。
神輿は年に1回、稲荷祭の時にしか出ないのでこの台も稲荷祭の時まではこの中でお寝んねということになります。ウフ
舞殿(まいでん)
舞殿は神楽をはじめとした様々な催しが執り行われます。上掲の写真のように普段は閉ざされていますが、年に1度の稲荷祭の期間中はこここでは神楽の奉奏や行事が行われます。
御旅所の境内社
御旅所の境内には境内社と呼ばれる下記のような摂社・末社が鎮座しています。御旅所の境内へは稲荷祭以外でも立ち入りができますので、境内社へはいつでもお参りができます。
境内社の並び方
境内社は向かい見て一番左端に「下命婦社」その右側に「上命婦社」その隣が「稲荷社」そして一番右端が「神宮社」です。
稲荷社には稲荷大社の主祭神「稲荷大神」のご分神が祀られていることから、社殿も一番大きく造られています。
稲荷社
- 御祭神:稲荷大神
- 建築様式:一間社流造(稲荷造)
神宮社
- 御祭神:天照皇太神
- 御祭神:豊受皇太神
- 建築様式:見世棚式神明造
上命婦社
- 御祭神:命婦専女神
- 建築様式:一間社流造
下命婦社
- 御祭神:命婦専女神
- 建築様式:一間社流造
境内社がある場所
境内の中央、奉安殿の前に奉安殿に脇腹を見せる形で並列状態に鎮座しています。
稲荷祭と東寺・空海の深い縁
あまり知られていませんが、東寺を創建したのは弘法大師・空海であり、その空海は東寺しいては真言密教の守護神として稲荷神(ダキニ天)をお祀りしています。
空海は稲荷神を自らの真言宗で崇拝する仏「ダキニ天」と習合させて、日本全国に真言宗を伝えると共に稲荷神(稲荷信仰)も布教しています。
空海は東寺の五重塔やお堂を造営する際、稲荷山の木を伐採するのですが、冒頭でも少しお話ししたように稲荷山にお社を築いて老翁(=稲荷大神)を勧請(招く)し、祀ることで守護神になってもらっています。
一説では、この時に空海が造営したお社が、現在の伏見稲荷大社の前身であるとも云われます。
ちなみに、その時の話がこんなお話です。
稲荷大神と空海
東寺の再建の最中、1人の老人と手をつないだ男女の童が、東寺にいる空海のもとへやってきました。
その老人は「稲の束」を背負い、「杉の葉」を手に持っていたそうです。
空海はその老人を一目見て、稲荷大神(稲荷老翁)とその神使であることが分かりました。
そして、その老人の一行に上述の「柴守長者の家」を宿として提供するなどして丁重にもてなしたそうです。
その後、空海は7日間の祈祷の末、稲荷山に稲荷大神を勧請し、すぐさま稲荷大神をお祀りしたという話です。
ただし、この話には諸説あり、この時の老人は空海が中国(唐)へ渡った際にインドで出会った「お釈迦様」であると言う説もあります。
そしてこの時、空海が稲荷大神をもてなした故事にならい、現代でも神輿に鎮座された稲荷大神が東寺を通るときは、必ず東寺の僧侶がこれを出迎えてお供え物を捧げることが決まりになっています。
なお、この習わしは、例年5月3日の「還幸祭」と言う神事で執り行われています。
実は、空海と稲荷大社とのつながりは他にもあり、なんとぉぅっ!空海の母親が荷田氏の血族であった事実はあまり知られていません。
荷田氏とは、稲荷大社の神官の一族で、稲荷大社を創建した秦氏の末裔とも云われます。
こうなれば新たな伏見稲荷大社創建説が浮上し、その説というのも空海が稲荷大社を創建し、母親の死後、母親と稲荷神(ダキニ天)と習合させて自らの宗派の守護神と定めたのかも知れません。
そして以降、母親の子孫である荷田氏(秦氏)が代々、伏見稲荷大社の神主を務め、守っていくことになるというストーリーです。
伏見稲荷大社・御旅所と稲荷祭
伏見稲荷大社の大祭の1つに「稲荷祭」があります。
稲荷祭は、平安時代の850年頃から続く、日本でも最古の部類のお祭りです。
稲荷祭は、大きく3つに分かれており「稲荷神幸祭」と「氏子祭」「稲荷還幸祭」とに分かれます。
そしてこれらのお祭りを総称して「稲荷祭」と称します。
しかし厳密には、5月4日に執り行われる「後宮祭」までもを含めたものが、稲荷祭であると言えます。
伏見稲荷大社「稲荷神幸祭」
「稲荷神幸祭」は、4月の半ば頃の日曜日に行われる稲荷祭の1番最初に行われる祭事です。
伏見稲荷大社の境内で午前11時頃から神様の分霊を5基のお神輿へお遷し巡幸する儀式です。
なお、これらの伏見稲荷大社のお神輿巡幸の起源とは、空海が稲荷神をお祀りする際に、神輿に乗せて巡幸することを誓ったとも云われております。
5基の神輿の種類と氏子地域(巡幸場所)
- 田中社(不動堂)
- 上社(東九条)
- 下社(塩小路・中堂寺)
- 中社(西九条)
- 四大神(八条)
5基の神輿を乗せたトラック数十台が、午後14時に伏見稲荷大社を出発した後、伏見稲荷大社の氏子区域を巡幸して御旅所へ入ります。
伏見稲荷大社「氏子祭」
そして、稲荷神幸祭から、約2週間ほど経った来る5月2日の午後13時頃になると、準備を終えた5基の神輿が、今度は人の手によって一斉に巡幸へ繰り出します。
まさに、稲荷祭の1番の見所です。
5月2日までの2週間は御旅所にて、お神輿の入念な準備が行われています。
「氏子祭」の巡幸では、伏見稲荷大社の氏子区域を、区域の氏子さんたちの手により巡幸されます。
「京都3大祭」に数えられるだけあって、大迫力のお祭りです。
京都の3大祭
- 賀茂祭
- 祇園祭際
- 稲荷祭
伏見稲荷大社の巡幸地域は、現在の京都駅の周辺付近になります。
5基の神輿がそれぞれ異なるルートを巡幸します。
巡幸を終えたお神輿は、伏見稲荷大社に還るのではなく、再び御旅所に還ってきます。
すなわち巡幸ルートは「御旅所⇒氏子区域⇒御旅所」と言う形になります。
この氏子祭から還幸祭にかけて見学者の数がもっとも多く、もっとも混雑します。
そして、氏子祭・還幸祭の大きな見どころが「露店(屋台)」です。
御旅所の周辺・付近に、たくさんの屋台が立ち並び、さらに賑わいをみせます。
氏子祭・還幸祭は、ちょうどゴールデンウィークと重なることもあり、例年、混雑必須のお祭りです。
伏見稲荷大社「還幸祭」
還幸祭では、いよいよ神様を伏見稲荷大社のお社へお還しする祭事です。
しかし、御旅所から直接、伏見稲荷大社にお還りいただくのではなく、まずは京都駅付近の「東寺(とうじ)」へ、神様をお乗しせた5基の神輿が向かいます。
東寺では、僧侶から神様への「神饌(しんせん/供え物)」の奉納があります。
この儀式のあと、再び伏見稲荷大社までの道のりを、お還り巡幸をされます。
最後に、神様の分霊をお載せした、5基の神輿(トラック)が伏見稲荷大社の境内へ到着します。
伏見稲荷大社「後宮祭」
後宮祭は5月4日の午前10時頃から本殿にて執り行われます。
後宮祭では、稲荷大神に稲荷祭が無事に終了したことをご報告し、神様をもとの各・お社へお戻しする祭事です。
そして、後宮祭をもって稲荷祭は完全な終了となります。
伏見稲荷大社・御旅所のお問い合わせ先(住所・電話番号・定休日・拝観時間)
- 住所:京都市南区西九条池ノ内町98
- 電話番号: 075-681-2616
- 営業時間: 24時間拝観可能
- 定休日:年中無休
- URL: http://inari.jp
伏見稲荷大社から御旅所へのアクセス・行き方「徒歩・バス・電車」
「徒歩」
所要時間:約40分- 距離:3.3Km
「バス」
↓徒歩約6分・500m
稲荷大社前バス停
京都市営急行105系統京都駅前行きへ乗車
↓所要時間:約8分
京都駅八条口バス停で下車
↓徒歩約8分・距離650m
伏見稲荷大社・御旅所
- 所要時間:25分
- バス料金:230円
「電車」
↓徒歩:所要時間約3分・距離200m
JR稲荷駅
京都駅行きへ乗車
↓5分・2駅
JR京都駅
↓徒歩約10分・距離900m
伏見稲荷大社・御旅所
- 所要時間18分
- 電車料金:140円
京都駅(八条口)から伏見稲荷大社・御旅所へのアクセス(行き方)「徒歩」
- 京都駅八条西口(西側)出口から徒歩約7分
- 京都駅八条口出口から徒歩約9分
近鉄奈良線・東寺駅から伏見稲荷大社・御旅所へのアクセス(行き方)「徒歩」
- 東寺駅出口から徒歩約5分
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