京都・藤森神社
創建年
- 不明
- 推定:203年頃(神功皇后摂政3年)
本殿の創建年
- 1712年(正徳2年)
建築様式(造り)
- 切妻造
屋根の造り
- 檜皮葺
御祭神
- 須佐之男命(主)
- 別雷命
- 日本武尊
- 応神天皇
- 仁徳天皇
- 神功皇后
- 武内宿禰
- 舎人親王
- 天武天皇
- 早良親王
- 伊豫親王
- 井上内親王
発願者
- 神功皇后(草創)
- 中御門天皇(本殿)
藤森神社のご利益
- 勝負運の向上
- 馬に関する職業の繁栄
藤森神社の読み方
藤森神社=「ふじのもりじんじゃ」
「ふじもりじんじゃ」と読まれる方も多いのですが正式名ではなぅい。
藤森神社の霊験(ご利益)
藤森神社は勝負運を授かることができる神社として、古来、多くの人々から篤い崇敬が寄せられています。
しかしいったいなぜ藤森神社がこれほど「勝負運」のご利益がある神社として騒がれるのでしょうか?
それは以下のような理由があるからです。
「馬」に関してのご利益の由来
藤森神社には、781年(天応元年)から早良親王にまつわる「駈馬神事(かけうましんじ)」と言う、神事が伝承されています。
この1200年続く伝統の神事に因んで、馬に関してのご利益があるとされています。
現在では、競馬関係者や競馬ファンが多数、参拝に訪れるとのことです。
ちなみに藤森神社の境内には、馬に因んだ「おみくじ」や「お守り」「御朱印」が授与できます。
藤森神社へ訪れた競馬関係者の方や、馬がお好きな方はぜひ、藤森神社で馬のご利益を授かって帰途につかれてください。
勝負運向上に関してのご利益の由来
その1
今から2000年にも及ぶ昔のことです。
170年(成務天皇40年)頃、皇室では、後の「神功皇后(じんぐうこうごう)」となる御子が誕生しました。
御子はやがてスクスクと育ち、大人の女性へと成長を遂げ、やがて「神功皇后」と呼ばれるようになりました。
神功皇后となった御子は、200年(仲哀9年)に神託を得て、朝鮮半島の新羅(しらぎ)への遠征(戦争)のために海を渡ります。
この遠征を「三韓征伐(さんかんせいばつ)」と言います。
しかし、新羅は戦わずして、降伏を申し出たため神功皇后は無傷での大勝利を得ました。
新羅が降伏したことを知った他の朝鮮国の高句麗(こうくり)と百済(くだら)も恭順の姿勢を顕にして、神功皇后へ降伏を申し出ました。
この戦いの後、神功皇后は現在の藤森神社が建つ藤森の地に立ち寄り、神を祀ることとなります。
以上のような神功皇后と縁から、藤森神社には「勝負運の向上」などのご利益があるとされています。
その2
また、この藤森神社は「菖蒲の節句(しょうぶのせっく)」の発祥の地と伝えらえています。
実は、藤森神社の「菖蒲」が「尚武(しょうぶ)」とも称され、これが「勝負」に通じるとのことです。
「尚武」の意味とは、「武道・武勇を極めようとする心」を指します。
武道・武勇を極めれば「勝負運向上」にもつながります。
以降、この由来が現代にまで受け継がれ「菖蒲=勝負の神様」として、古来、変わらず多くの人々から篤い崇敬が寄せられています。
ちなみに、上述の「菖蒲の節句」とは一般的に言う「初節句」や「端午の節句」のことです。
「初節句」とは「生まれて初めて過ごす節句」を意味します。
男子は5月5日がこれに該当し、俗に言う「端午の節句(たんごのせっく)」です。
5(五)とは、午(うま)を指し、初めて過ごす午の日を意味します。
さらに「五月」の「五日」となれば「5(五)」が重なる月日になり、この日に神様に祈祷することで健やかな成長を見守ってくださり、長生きできると云われております。
男子は例年5月5日の初節句を迎えると「菖蒲(しょうぶ)」と「粽(ちまき)」を御神前へ供進(捧げる)する儀式を執り行います。つまりご祈祷のことです。
自宅では神棚やタンスの上などに祭壇を設けて「鯉のぼり」や「鎧」「兜」もしくは「武者人形」を飾り、「粽(ちまき)」や「柏餅(かしわもち)」を食します。
そして一説によると、上述したようにこの藤森神社が「端午の節句(たんごのせっく)」いわゆる「菖蒲の節句」の発祥地とも伝わっています。
また上述した武者人形を飾ることで藤森の神の寄り代とし、藤森の神のご加護を賜ることができるとされています。
ところで・・女子の初節句はいつ??
ちなみに女子の初節句は、いつ行われ、何と呼ばれているかお分かりになりますか?
女子の初節句の方が世間的には有名です。
ちょっと考えてみてください。
・・
・・
残念無念~!ハズレです!
正解は「ひな祭り」です。
「ひな祭り」は例年、3月3日でこれも「3」が重なる日です。
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