京都・伏見稲荷大社「楼門」【重要文化財】
創建年
- 不明
再建年
- 1589年(天正17年/安土桃山時代)
- 1694年(元禄7年)※移築
- 1852年(嘉永五年)※屋根修理
- 1879年(明治13年)※修理
重要文化財指定年月日
- 2014年(平成26年)1月27日
建築様式(造り)
- 入母屋造
- 楼門
屋根の造り
- 檜皮葺
大きさ
- 三間一戸(横幅:約6m)
京都・伏見稲荷大社・楼門の歴史・由来
京都・伏見稲荷大社の楼門の創建年は不明とされておりますが、前身となる小規模なわりと質素な門が建てられていたと伝えられています。
創建年が不明であるのには理由があり、室町期に京都を中心地として勃発した応仁の乱の折、伏見稲荷大社にまで兵火の類焼が及び、境内の社殿や門はほとんど燃え尽きてしまったからです。
それはこの楼門も、例外ではありませんでした。
この応仁の乱によって、境内の建造物はもとより、創建年の証拠となるような文献なども焼失したと伝えられています。
なお、楼門が再建されたのが1589年(天正17年)であり、応仁の乱が起こったのが1467年(応仁元年)であることから、約120年間ほど楼門がなかったことになります。
安土桃山時代に太閤秀吉によって造営された楼門
楼門は、太閤秀吉(豊臣秀吉)の母ジャ(訳:生母)である大政所(おおまんどころ)の病魔退散・病気平癒を祈願して、祈祷料として太閤秀吉自身が一万石を寄進して建造(再建)したと伝わる。
秀吉は五奉行の一人・前田玄以(まえだげんい)を稲荷社へ参向させ、生母・大政所の病気平癒 立願につき、楼門を造営するように命じた。(秀吉の生母の名前を「仲」とする説がある)
神社側もこれを受け、急遽、本社ならびに拝殿以下の員数、再興計画などの造営計画をまとめ上げ、天正十七年の修理開始に到った。
このとき秀吉が書いたその願文が、現在も伏見稲荷大社に現存する。
秀吉の願文の内容
母の寿命を三年、いや、それが無理なら二年、それでも無理ならせめて30日の延命を願う‥‥
というものだった。
ただ、その祈りが通じたのか、秀吉の母はそれから快方へ向かい、結局、4年生きた。(1592年/元禄元年7月に死没)
秀吉が寄進した一万石の価値
1629年(寛永六年)、徳川三代将軍・家光公は疱瘡(ほうそう/天然痘、いわゆる感染症)を患ぃ、稲荷社でもその平癒祈祷が執行された。
その折、淀にあった御用蔵の米100石の所有権を認めた、いわゆる小切手のようなものを伏見の米問屋へ持ち込み、一貫を150目の手形で払い下げたと伝わる。
これを当時の相場で計算した場合、単純に安く見積もっても200万円は下らない。
実は秀吉が寄進を約定した一万石は後に五千石へと値切られたらしいが、それでも家光公が寄進した100石を基準にして秀吉が寄進した祈祷料を計算した場合、その50倍として一億円は下らない計算にな〜る。お金持ちって素・敵💋
楼門の再建が判明した経緯
楼門の再建年が明らかにされた経緯としては、1973年(昭和四十八年)に実施された楼門の修繕の折、「天正十七年」の墨書が見つかったことによる。
元禄期(江戸時代)にも実施された大規模修理
1694年(元禄七年)の江戸幕府主導の工事は大規模だったようで、現在の楼門周辺を拡張する形で楼門自体も西へ五間(約10メートル)の場所へ移築、さらに楼門前方に石階段までもが造成された。
また、かつて築地塀であった東西の回廊もこのときに新造されたと伝わる。
この元禄七年の大造営・大改修に並行する形で当社(伏見稲荷大社)は、徳川幕府(将軍・徳川綱吉)により俸禄が増加されており、楼門のみならず境内全域にて大規模な修営・増築がなされた。
この元禄の大造営は伏見稲荷大社の歴史上、1589年(安土桃山時代)に次ぐ規模のものであり、幕府に伝わる「京都御役所向大概覚書」によれば1525両と本殿の遷宮に米200石が寄進されたとの記録がある。
月番記録(七十三冊)によると、1852年(嘉永五年)にも屋根修理が実施されたことが記される。
1882年(明治十五年)には本殿・拝殿・楼門はじめ、摂末社の修理が実施され、社務所や集会所、能楽殿などが新造された。
京都・伏見稲荷大社の楼門の人形「随身像」
伏見稲荷大社の楼門の左右には「随身像」と呼称される人間とほぼ同寸の人形が一体ずつ安置されています。
随身とは「ずいしん・ずいじん」と読みます。
楼門の随身像の格好(衣装)は、平安時代の貴族のような和装装束を羽織っており、手には弓を持ち背中には矢筒を背負っています。
これには理由があり、平安時代に「皇族」や「皇族を補佐する官僚」のボディーガード(警備兵もしくは武官)であり、つまりは伏見稲荷大社を守護しているからです。
楼門の入口正面から見て、右側の随身像を「右大臣」と呼称し、楼門の入口正面から見て、左側の随身像を「左大臣」と呼称します。
そして、それぞれの随身像の大きな違いとは以下↓の通りです。
京都・伏見稲荷大社の左右の「随身像の違い」
- 「右大臣」随身像は口を閉じている。(吽形)
- 「左大臣」随身像は口を開けている。(阿形)
- 「右大臣」の方が年若い(青年)
- 「左大臣」の方がオッちゃん
- 「左大臣」の方がオッちゃんな分、長生きしているので位が高い…と思われる。
随神像は概ね、伏見稲荷大社と同様に左大臣がオっちゃんで、右大臣が青年です。
ほとんど例外がない限りは、「左大臣の方が年若い武者」、「右大臣の方がオっちゃん」となり、右大臣の方が位が高くなります。
これは古来、左(向かって右側)が上座だったことから位を示すものでもあります。
容姿もほぼ統一され、弓矢を持っています。様々な神社へ参拝された際は、門を見てください。
ただし、小規模な神社であれば社殿(拝殿)の中の左右に随神像が安置されていることが多いです。
京都・伏見稲荷大社・楼門の建築様式(造り)
かつて楼門は2階建てであることから「二重門」と呼ばれる門でした。
2種類あった従来の二重門
- 1階と2階に屋根がそれぞれあり、合計で2つ屋根がある門
- 2階にのみに屋根がある門
これらを区別するために「楼門」と「二重門」と呼び方を2つ作りました。
- 楼門:2階にのみ屋根がある門
- 二重門:1階と2階にそれぞれ屋根を持つ門
「楼門」の豆知識
楼門の「楼」とは「樓」や楼閣の「楼」を意味しており、すなわち重層の建造物のことです。
他に「物見やぐら」などの意味合いもあります。
楼門前のキツネ像は何をくわえている??
楼門の前には随身像だけではなく、キツネ像が楼門を挟み込むようにして前方に2体祀られています。
通常の神社であればキツネではなく、狛犬が祀られていますが、お稲荷さんの総本社とだけあってたくましいキツネ像が配されています。
これらのキツネ像をよく見れば口に何かを咥え込んでいますが、これは以下のようなものです。
- 向かい見て左側のキツネ像:「鍵(かぎ)」
- 向かい見て右側のキツネ像:「珠(たま)」
キツネ像が鍵を咥えている理由
狐さんが口にくわえているる「鍵」は、蔵(倉庫)を開ける鍵です。「稲」を収納しておく蔵(倉庫)の鍵ということになります。
キツネ像が珠を咥えている理由
宝玉(宝珠)は「財宝」を意味します。財宝と言えば、それを収納する蔵(倉庫)も意味します。
「鍵を用いて宝珠を身に付ける(玉鍵信仰)」といった由来に基づきます。
他にも伏見稲荷大社境内には、巻物を咥えこむキツネ像、稲を咥えこむキツネ像が配されています。
この楼門前のキツネ像は1880年(明治13年)に寄進されたものだと伝えられています。
ちなみに1880年以前はキツネ像ではなく、ごく普通の神社の境内で見かけることができる狛犬像だったようです。
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関連記事:伏見稲荷大社の狐像が口にくわえている玉・鍵・稲の意味や由来とは?
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楼門の吊り灯籠
吊り灯篭の火袋の部分に目をやると、「明治十三」の陰刻が見えることから、「1880年(明治十三年)」に奉納された吊り灯籠だということが分かります。
明治13年と言えば楼門前のキツネ像が奉納された年と同じです。一斉に奉納されたことが想像につきます。フっ
火袋部分の神紋が陰刻された飾り金具の意匠が見事❤️
楼門の飾り金具(釘隠し)
楼門の飾り金具を見ればなんとも愛らしい素敵❤️なハートマーク♡をしています。
このようなハートマークは猪目(いのめ)と呼ばれ、主に軒下に据えられる懸魚(けぎょ)に散見される特徴ともなる。
明治神宮(東京)の本殿や門扉はじめ、境内の諸所にこのようなハートマークが見られることから、今日では恋愛成就のパワースポットと囁かれる。
伏見稲荷大社・楼門の場所(地図)
伏見稲荷大社の楼門はJR稲荷駅前の鳥居をくぐり、さらに奥にもう1つある鳥居をくぐった先に位置します。
伏見稲荷大社の本殿および後方の稲荷山を守護する立派な門です。
- JR稲荷駅から徒歩約1分