京都・伏見稲荷大社「本殿」【重要文化財】
創建年(現在の本殿)
- 不明
- 推定:1185年-1333年(鎌倉時代)
再建年
- 1494年(明応3年/室町時代後期)
- 1676年(延宝4年/江戸時代)※屋根新造
- 1882年(明治15年)※修理
- 1912年(大正元年)※修理
- 1951年(昭和26年)※修理
大造営
- 1499年(明応8年/室町時代後期)
- 1589年(天正17年/安土桃山時代)
- 1694年(元禄7年)
重要文化財指定年月日
- 1909年(明治42年)4月5日
建築様式(造り)
- 五間社流造
- 両壁面・扉付き
- 高欄・擬宝珠付き
※稲荷造り
社殿の大きさ
- 桁行(横幅)五間(約10m)
- 梁間(奥行き)二間(約4m)
屋根の造り
- 檜皮葺
御祭神(主祭神)
- 宇迦之御魂大神(稲荷大神)
- 大宮能売大神(相殿)
- 佐田彦大神(相殿)
- 田中大神(相殿)
- 四大神(相殿)
本殿の別名
本殿と本殿に次ぐ社格を有する奥宮を御所に見立て、奥宮を清涼殿(常御殿)、本殿を紫宸殿(ししんでん)とする考え方があり、この場合においての本殿は「下御殿」、奥宮を「上御殿」とも呼ぶ。
京都・伏見稲荷大社「本殿」の歴史
残念なことを申し上げなければなりません!
伏見稲荷大社は室町時代(1468年/応仁2年)に勃発した応仁の乱の影響により、創建時よりの歴史の変遷が記録された文書のほとんどが焼失。現在、公式文書のほとんどは応仁の乱後のもの。
応仁の乱は洛中に細川・山名両軍が陣を敷いての”銭湯”でプハぁ〜‥‥とする如くに激しい”戦闘”だったらしいが、その戦火は洛外にもおよび、京都中を焼け野原にしたと伝わる。
そして、この洛南に位置す〜る深草は伏見稲荷大社にまで戦火がおよび境内を全焼・灰燼に到らしめたのだった。
本殿はかつて稲荷山山中にあった?
伏見稲荷大社のことが記された社外の古文書によれば、創建当初の本殿は稲荷山に位置し、現在の本殿の場所には稲荷山の本殿を礼拝するための斎場だったと記される。
室町時代に本殿は現在地に移建された?
1438年(永享10年)に室町幕府・第6代将軍「足利義教」によって現在の場所に本殿が移築されたとする説があり、この時に山下(麓)に宮域が創造されたとする説がある。
ただ、実際のところいつ頃、現在の本殿や社殿群が並び建つような宮域が成立したのかは未詳とされる。
本殿の場所についての異説
近隣の藤森社や氏子には次のような伝承がある。
かつて現在の稲荷大社本殿が建つ敷地一帯は藤森社の敷地だったが、ある時、当時、稲荷山中にあった稲荷社から藤森社に対して次のような打診があった。
『稲藁(いなわら)の置き場所を確保したいので土地をお借りしたい。』
藤森社もその程度のことならと快諾したが、何を考えたのか稲荷社側は稲藁をバラして一本ずつ、つなぎ合わせて広大な面積を囲った。
その後どのようなやり取りが交わされたのかは判然とはしないが、最終的に藤森社が泣き寝入りをして現在地へと追いやられる恰好となり、時代が下るとその場所に稲荷社の本殿が建てられた‥‥という話。ちゃんちゃん
これを傍証する奇習として稲荷大社社頭および門前では現在でも稲荷祭を斎行しない風儀が踏襲される。(神輿を乗せたトラックが通過するのみ)
また、藤森祭の折、藤森社の神輿が稲荷社境内へ参入し、藤森の土地を返せと大声で叫ぶ風習があった。
‥‥‥とまぁ、これらはあくまでも俗説の域を出ない伝承の一つ。
わずかな修理記録に見える鎌倉時代の痕跡
当社の修理記録によると、神社所蔵の獅子口(ししぐち/鬼瓦の代わりに棟の両端に置く瓦)を屋根上の棟両端に飾ったことが記される。
ここから明らかにされた事実としては、現在、銅板葺で葺かれた屋根は室町期やそれ以前は瓦屋根だった可能性が高いとし、なによりも実際に発見された巴瓦や唐草瓦が鎌倉時代のものであることが判明したことから、本殿は鎌倉時代に現在の山下(麓)に存在したことを示唆する。
長押から発見された墨書き
「東九条大工 木村源太 ○年 四十六」
当大工(木村源太)は藤森社の修営も手がけてい申す。あひょ
「此やしろの とうりやう 東九条 源太しやうねん四十八」
※藤森社境内の八幡宮本殿から見つかった墨書き※
ただ、稲荷大社に伝わる修理報告書によればかつて屋根上には瓦棟が据えられ、この瓦が鎌倉時代のものと記録されており、これが事実であれば鎌倉時代にはすでに本殿が存在していたことになります。
明応年間の修理の記録
まず、応仁の乱後の1468年(応仁二年)12月に御神体を仮りに安置しておくための殿舎(お仮殿)が造営され、1492年(明応元年/延徳四年)から本格的に本殿再建が開始されたとする。
ちなみにこのとき御神体を安置した仮殿こそが、現在見ることのできる本殿後方の「権殿(ごんでん)」の前身とされる。
1494年(明応3年)6月には本殿の壁が修理され、次いで1499年(明応8年/室町時代後期)11月23日には仮殿から本殿へ御神体をお戻しする「遷宮(せんぐう)の儀」が執行された。
明応年間の修営では費用が足りず計画変更された?
上記、明応年間の修理期間は1492年(明応元年/延徳四年)から開始され、その修理は1499年(明応8年/室町時代後期)11月にまで及んだことになる。
この事実は本殿長押から見つかった延徳四年(1492年)、ならびに壁面から見つかった明応三年(1494年)の墨書きが、修営された期間と事実を如実に物語る。
ただ、稲荷社事実考証記に「明応八年 十一月 遷宮」と記された本殿修営記録が見つかったことから状況は一変、これを事実とするならば、延徳四年(1492年)から明応八年(1499年)までの約7年という長期間を要して修営されたことになる。
修営がこれほどの長期間におよんだ理由には、材の不足や費用・人手不足などの理由で頓挫していた可能性も視野にいれなければならない。
だグぁ!
その可能性の一つに設計が改変されたとする次のような見解がある。
当初の計画ではすでに三座を相殿形式で合祀した本殿が存在し、この本殿に追加する形で新たに摂社2柱を相殿・合祀して五社相殿の社殿とする計画だったというもの。つまり、増改築。
ただ、計画が甘かったのか実際に工事に入ると想定以上に費用がかさみ、散々、費用調達方法などの協議が為されたが、結局、良案は出ずに計画を見直す方向で話がまとまった。
その新たに出された計画というのが、もとの三社相殿規模の社殿へ戻し、修営を実施するというものだった。
秀吉主導のもとに実施された安土桃山期(1589年/天正十七年)の修理では、増改築と呼べる規模のものであり、それはそれはクソでけぇ、本殿が隠れちまぅほどの向唐破風造の向拝が追加された。
元禄期の修営記録
元禄七年1月12日、幕府作事方の棟梁・中井主水正正知(なかい もんどのしょう まさとも/1631〜1715)が稲荷社を巡見する。
この巡見により正知は1000両余と見積もったらしいが、最終的に1525両と遷宮費用 米200石を要したらしい。
元禄七年の修理内容
本殿向拝の増築、礼拝所、楼門、弁財天社、田中社、白狐社、命婦社、大黒天社、若宮社…etc
判明している修営記録では、元禄期の修理は太閤秀吉以来の稲荷社史上最大級の修営となった模様💘
明治時代にも修理や新築が相次ぐ
1882年(明治十五年)には本殿・拝殿・楼門はじめ、摂末社の修理が実施され、社務所や集会所、能楽殿などが新造された。
大正時代に実施された修理
元禄期の増改築では本殿前に大きな向唐破風造の向拝が追加された。
大正二年(1913年)、この向唐破風造の向拝の屋根葺替えが実施され、正面軒まわりの飛燕垂木や茅負、木負などが、ほとんどすべて取替られた。
大正元年にも本殿の大修理、修復が施行された。
昭和時代の修理
昭和二十六年(1951年)に実施された修理では、”心臓”がバクバクと音を立てて鼓動するかの如くに内拝殿が”新造”され、江戸期造立の本殿前の向唐破風の向拝を、この”心臓”がバクバクとするほどに”新造”された内拝殿の前へ移築した。
昭和二十六年にも本殿の大修理、修復が施行された。
ここまでの話が今日に見られる本殿・内拝殿・唐破風の歴史となる。
伏見稲荷大社はかつて「愛染寺」と呼ばれるお寺だった?!
本殿および境内再建の際は、伏見稲荷大社境内に存在した「地蔵院」の僧「覚圓」が「伏見稲荷本願所」を立ち上げ、のちに「愛染寺(あいぜんじ)」と呼ばれることになります。
1494年(明応3年)からは愛染寺の僧・円阿弥による勧進活動(浄財を集める活動)が開始され、この円阿弥が資金を集め、修造の指揮を執ったのが荷田氏の血脈を受け継ぐ神官だったようです。
ここで察しの良い方であれば「あれ?神社の境内に寺院があるの??」と思った方もいるかもしれませんが、「愛染寺」とは、信じられない話ですが、かつてこの伏見稲荷大社の中に存在した神宮寺(じんぐうじ)のようなもので、伏見稲荷大社の管理を一手に担っていた寺院のことです。
江戸時代以前は寺院の方が地位が高く、寺院が神社を管理する形態が当たり前でした。
この愛染寺は「愛染」の名前から推察できるように、稲荷大社近くに位置する真言密教の寺院「東寺(とうじ)」に関係した寺院です。
伏見稲荷大社 本殿の建築様式
屋根
檜皮葺(ひわだぶき/ヒノキ材を葺いた屋根)
千木・鰹木
千木を鰹木(かつおぎ!)は置かない。
身舎部分
五間社流造を基本とし、四方に縁をまわす。
組物
左右の壁面(妻側)に見える平三斗(ひらみつど)はじめ、和様三斗組を用いる。
縁側部
左右後方に脇障子(わきしょうじ)、柱脚部・縁との境目部分に切目長押を据える。
内部
本殿内部は大きく内陣と外陣区画に分けられ、双方の内部は共に区切り無し。
内陣は格天井(ごうてんじょう)を張り、内部に五柱の神が相殿形式で奉安される。
ただ、内壁を以て5つの空間が区画され、それら各空間それぞれ一柱の神が祀られる。
外陣は小組格天井(こぐみごうてんじょう)を張る。
内陣と外陣の境目には観音開きの五つ扉を嵌め込み、内部に五柱の御祭神が安置される様式を採る。
向拝(こうはい)部
面取した角柱を支柱として各間を挟み込むように前面に立て、柱間(はらしらま)を五間(ごけん)とする。(「五間社」に由来)
向拝の組物
向拝支柱上の組物は連三斗(つれみつど)とし、中備(なかぞなえ)には蛙股(かえるまた)を置く。
柱上部に繋ぎ虹梁(こうりょう)を用いて柱間を渡しつつ、荘厳さを醸す。
正面階下の浜床の中央一間には7級(7段)の木階(きざはし)ならびに、擬宝珠柱(ぎぼし)を立てた登り高欄(こうらん/手すり)を据える。
社殿下(脚元)
社殿下(脚元)に亀腹(かめばら)を敷く。
建築的特徴
稲荷造り
稲荷大社の本殿の建築様式は以下に見られるような神仏混淆を想起させる建築的特徴を有することから、別格扱いにて特別に「稲荷造(いなりづくり)」と呼称される。
これは稲荷大社の鳥居に見られる塗装が「稲荷塗(いなりぬり)」と呼ばれることと同義とみれる。
なお、本殿がそのように呼ばれることで、本殿に倣った建築様式を採る権殿や奥宮も「稲荷造の社殿」と呼ばれる。
打越流造
伏見稲荷大社の本殿や権殿は、特徴的な屋根の形をしています。
身舎(殿)の部分から屋根が前方へ延びて、向拝(こうはい)となって七段の木階(階段)を覆う。
この屋根を側面から見たとき、世にも珍しいひらがなの「へ」の文字のような形に見える。
このような屋根の形は「打越流造(うちこし ながれつくり)」や「流造(ながれづくり)」と呼ばれる。
五間社流造
上記、身舎部分から延びる向拝部を正面から見ると、本殿には柱間が左右に5間(5つの区画)あることが分かる。
今日、このような5つの区画(柱間)を有する建造物は「五間社流造り」と呼ばれる。
連子窓や脇障子を据える
左右の壁面には弊軸(へいじく)で縁取った観音開き扉のほか、二間の腰長押(こしなげし)、連子窓をハメ込む。
左右壁面に見える妻組(つまぐみ/軒下)には、扠首(さす/緊結させた2本の用材を逆V字型に組み合わせた構造材)を用い、横架材(おうかざい)や棟木を受ける。
飾り金具
木階の高欄や脇障子はじめ、殿舎全体的に飾り金具(金装飾金具)を多用し、荘厳さを醸す。
京都・伏見稲荷大社・本殿「内拝殿」
創建年
- 1961年(昭和36年)※内拝殿
再建年
- 1882年(明治15年)※修理
建築様式(造り)
- 切妻造
屋根の造り
- 銅板葺
向拝部の造営年(本殿から移築)
- 1694年(元禄7年/江戸時代)
「内拝殿」とは?内拝殿の意味
「内拝殿(ないはいでん)」とは、本殿の前に増設された「拝殿(はいでん/参拝客がお祈りする場所)」を指す。
稲荷大社の場合、本殿と向唐破風に拝殿が挟まれる恰好となっていることも内拝殿と呼ばれる理由ともなるのだろぅ。
ちなみに明治神宮(東京)にも「内拝殿」がある。
当社(明治神宮)の場合、「本殿→内拝殿→外拝殿」の並びになる。
内拝殿が設置されたのは後の時代
現在の稲荷大社本殿は次のような構造(並び)になってい‥申す。やっ
本殿→内拝殿→唐破風
分かりやすく説明すると本殿の前に内拝殿なる建物が建ち、その内拝殿出入口部分に向唐破風造の向拝が附属する。
🦊向唐破風と軒唐破風の違い
このように本殿の前に内拝殿なる建物が建ち、その出入口には絢爛豪華な唐破風が据えられる。
まさにこのような稀有な形態こそが、今日、「稲荷造」と呼ばれる所以というもの。オホっ
内拝殿が造られた理由
稲荷社御鎮座1250年記念の奉祝する意味合いで、1961年(昭和三十六年)に内拝殿が建造された。
ほかに、やはり稲荷人気の影響で参拝客が増加したことも理由に挙げられるのだろぅ。
本殿の絢爛豪華かつ秀麗な唐破風の向拝
江戸時代の本殿には超!豪華な唐破風の向拝が附属していました。
「唐破風の向拝」とは、中央部が緩やかに盛り上がり、全体的に見て「弓なりに弧を描いた屋根」が付いた玄関のことです。
ところが、1961年(昭和36年)に本殿の前方に「内拝殿」が増築される形で建造されたため、豪勢な唐破風の向拝も新造された内拝殿の外側(入口)部分に改修の上、移設されて今日に到る。
この唐破風は、1694年(元禄7年/江戸時代)の修営時に新造されたものであり、1913年(大正2年)に屋根修理・化粧材が取替えされています。
なお、太閤秀吉が増築した安土桃山時代には本殿が隠れるくらいの大きな唐破風が附帯していたと伝わる。
日光東照宮を彷彿とさせる色彩豊かな絢爛豪華な唐破風は、江戸時代の建築様式の特徴が余すことなく色濃くにじみ出た唐破風といえます。
京都・伏見稲荷大社「本殿」の御祭神について
京都・伏見稲荷大社の本殿では、以下に述べるような神が祭祀される。
- 宇迦之御魂大神(中央に鎮座・うかのみたまおおかみ/下社)
- 大宮能売大神(南に鎮座・おおみやめのおおかみ/上社)
- 佐田彦大神(北に鎮座・さたひこのおおかみ/中社)
- 田中大神(最北に鎮座・たなかのおおかみ/下社摂社)
- 四大神(最南に鎮座・しのおおかみ/中社摂社)
主祭神は「宇迦之御魂神=稲荷大神」とされていますが、稲荷信仰においての稲荷大神とは上記、5柱の神の総称です。
伏見稲荷大社が創建した当初は宇迦之御魂神だけだった?
伏見稲荷大社が創建された当初、主祭神ともなる「宇迦之御魂大神」だけがお祀りされていたようだが、およそ800年から900年頃(平安時代)になると以下、2座の神が合祀されるようになったと伝わる。
- 佐田彦大神
- 大宮能売大神
星霜経て、1100年から1200年頃(平安後期から鎌倉前期)になると、古くから伏見の地の土地神とされる「田中大神」と「四大神」が合祀されることになった。
田中大神はかつて稲荷山の神蹟の1つである「荒神の峰」にて祀られていたらしく、これら2座の神は当初、別々の社殿にて、それぞれ別の場所で奉祀されていたと伝わる。
実のところ、本殿はもともと上記、3柱の神(宇迦之御魂神、佐田彦大神、大宮能売大神)を奉斎した「三間社流造」だったらしいが、稲荷社事実考証記という旧記によると、1499年(明応八年)11月に五間社流造へ改造されたらしく、新設された5つの各間へ移座の上、今日に見られるような5柱相殿の形式になったと云われる。
なお、「記紀(日本書紀・古事記)」によると、「宇迦之御魂大神」は伊勢神宮の外宮でお祀りされている「豊受大御神(とようけ おおみかみ)」、もしくは「稲荷大神」と御同体の神とされる。
伏見稲荷大社・本殿の「過去の2回の大修繕」
京都・伏見稲荷大社では、天正年間(1573年から1593年)までの間に太閤秀吉によって大修繕が行われています。
その後、さらに1694年(元禄七年)に江戸幕府(徳川綱吉)によっての伏見稲荷大社の俸禄が増加され、その際に大修繕が実施されています。
現在、見ることのできる社殿は「1499年(明応八年/室町時代後期)」に大造営(再建)された時の社殿となります。
京都伏見稲荷大社・本殿の特徴や見どころ
本殿の見どころは、室町期・安土桃山期・江戸時代とそれぞれの時代の特徴を併せ持った社殿の造りを細部に見ることができます。
特に「金色の装飾金具」や社寺建築によく見かける「蟇股(かえるまた)」は、その時代の文化が反映されやすい部分です。
雄飛する白狐が彫り込まれた蟇股(右側)
雄飛する白狐が彫り込まれた蟇股(左側)
以下に挙げる箇所は室町時代後期(安土桃山時代の前期)から江戸時代にかけての建築様式の特徴が滲み出た部分とされる。
笈形付の大瓶束
⬆️太瓶束の左右に極彩色の鳳凰?を混じえた花鳥の彫刻がみえる。
屋根下、懸魚(げぎょ)の金覆輪(きんぷくりん)
同じく屋根を支える垂木の先の垂木鼻(たるきばな)の木口飾り
向拝の最前部分(前拝)の蟇股(かえるまた)
また、金の装飾は、金の産出の増加や金の加工技術の向上に伴い、江戸時代に数多く作られています。
他にも、以下のような点で仏教との習合が社殿の造りに垣間見えます。
- 縁(廊下)で社殿が囲まれている
- 社殿の前室部分の左右に扉がある
- 緑色の連子窓がある
- 神社であるにもかかわらず「千木と鰹木」が屋根にない
【補足】伏見稲荷大社の旧称
実は、”伏見稲荷大社”という社号は、1946年(昭和二十一年)に付けられた事実はあまり知られていない。
1946年(昭和二十一年)以前は単に「稲荷神社」もしくは「伏見稲荷神社」という社号だった。
しかし、伏見稲荷神社は全国の稲荷社の総本社にあたることから、他の稲荷神社とは別格の社として差別化を図らなくてはいけません。
そこで1871年(明治四年)、官幣大社に昇格するのと時を同じくして「稲荷大社」へと改号しています。
星霜経て、1946年(昭和二十一年)7月に独立宗教法人となったのを期とし、正式に「伏見稲荷大社」と名乗ることを公表しています。
京都伏見稲荷大社・本殿の場所(地図)
本殿は、稲荷駅・伏見稲荷駅側からの参道入口・鳥居から入ってひたすら直進した境内の正面に位置します。