京都・伏見稲荷大社「奥宮」【重要文化財】
創建年
- 不明
- 推定:1459年(長禄3年)以前
再建年
- 1573年から1592年(天正年間)
- 1674年(元禄7年/江戸時代)
建築様式(造り)
- 三間社流造
※稲荷造
屋根の造り
- 檜皮葺
御祭神
- 稲荷大神
重要文化財指定年月日
- 2014年(平成26年)1月27日
祭事日
- 1月4日午前10時(奥宮例祭)※一般参拝可能
京都・伏見稲荷大社・奥宮の読み方
奥宮は「おくみや・おくのみや」と呼称します。
奥宮の別名
本殿と本殿に次ぐ社格を有する奥宮を御所に見立て、奥宮を清涼殿(常御殿)、本殿を紫宸殿(ししんでん)とする考え方があり、この場合においての本殿は「下御殿」、奥宮を「上御殿(かみごてん)」とも呼ぶ。
京都 伏見稲荷大社・奥宮の建築様式・造り
正面の蟇股の形状や繊細な彫刻は、安土桃山時代〜江戸時代を象徴する繊細かつ見事なまでの極彩色で彩られた「蟇股(かえるまた)」です。
⬆️深草の地を連想させる「竹」が彫られている⬆️百合(ゆり)もしくは芍薬(しゃくやく)の花か?
近くに建つ、権殿は横幅がもう少し広いのですが、社殿の造りが非常に類似しており、まるで権殿ひいては本殿を少し小さくしたような社殿にように感じられます。
伏見稲荷大社・奥宮の役割り
「奥宮」とは?
奥宮と呼ばれる理由は、当宮と深い関連性のある社殿より少し離れた場所(境内の奥)に建つことから「奥宮」と呼ばれる。
また、この奥宮では、深い関連性のある社殿の祭神が祀られており、伏見稲荷大社の場合は本殿がその深い関連性のある社殿となる。
つまりのところ、伏見稲荷大社の奥宮でお祀りされている御祭神は、本殿でお祀りされている稲荷大神の分霊となる。
伏見稲荷大社の社殿群でも孤高の存在をほこる「奥宮」
奥宮の伏見稲荷大社のおける社格は「無し」とされており、「摂社」でもなければ「末社」でも無いとされています。
奥宮が清涼殿?
稲荷大社の社伝によると、御本殿は御所の紫宸殿(ししんでん)に相当し、奥宮は同じく御所の「清涼殿(せいりょうでん)」に位置付けられるとする。
奥宮は社格は無しとされるも、稲荷社内では本殿の次ぐほどの社格を有すると位置付け、祭礼も本殿を意識した仕様で”最高”な形で”斎行”される。
実際、本殿を縮小させたようなかのような意匠でもって造営されている事実などを以って、それを傍証する。
かつて伏見稲荷大社の奥宮には回廊が存在した?!
実は、1499年(明応8年)に伏見稲荷大社境内では大造営が行われており本殿が新造されていますが、その際、この奥宮に回廊が存在したことが明らかにされています。
回廊の長さは裄行(奥行)が8間(約14.5m)と推定され、わりと大規模な回廊であったらしいが、残念無念なことにこの回廊は現存しない。
以上のことから別格の扱いの社殿とされる。
現在の奥宮は姿は、1573年から1592年(天正年間)に造営(再建)されたものであり、1694年(元禄七年/江戸時代)に修理されたもの。
なお、1573年〜1592年に造営(再建)されたものの、厳密には1589年(天正17年)に太閤秀吉の手により、現在の本殿が建つ麓の宮域が拡張され、その折、新たに楼門が建造されており、それと同時並行で当宮も建造されたものだと考えられる。
上御殿の歴史の変遷
稲荷大社の歴史を省みる中で「上御殿」と称する社殿がいくつか登場する。
ダグぁ!その上御殿すべてが奥宮の前身たる上御殿ではなく、どうやら複数存在した模様😘
とりわけ、明応の修営・大造営において山上や山中にあった諸社も再建・再興される予定だったが、予算不足や維持管理が困難と判断されため、已む無く復興は見送られた。
そこで山頂に在った上社のみを復興する形で山下(麓)に在った本殿後方の丘陵地に移建した。
この後、この上社は「上御殿」と呼ばれ、今日では「奥宮」と称される。
伏見稲荷大社の奥宮は「三社殿」とも呼ばれる
伏見稲荷大社・奥宮の内部は2つの仕切りがあり、内陣と外陣とに空間が区画され、3つの空間が創られてい申す。ひょ
その空間それぞれには神が祀られていることから、「三社殿」とも呼ばれる。
3柱の神が祀られている所以は、800年から900年頃(平安時代)、「下社・中社・上社」という3つの社殿が建てられており、それぞれに神様がお祀りされていたらしい。
※下社・中社・上社の神様
- 下社:宇迦之御魂大神(主)
- 中社:佐田彦大神
- 上社:大宮能売大神
つまり、これら3柱の神を合祀した形の社殿が現在の奥宮であるならば、往時の名残が現在の奥宮の内部に残されているものとみることができる。
いずれにしよ、稲荷信仰が盛行であった頃の名残を伝える殿舎として重要であり、これが今日、重要文化財指定を受ける理由でもあろぅ。ふぉふぉっ